梶原靖元は、陶芸の原理主義者である。陶芸の中心を発生期の唐津焼に据え、その原理を追求し、自分なりの明確な答を得て制作するからである。原理を追求するとは見かけは二の次と言うことだ。古唐津らしさ、桃山らしさ、李朝らしさ…といった表面的な見かけや色味や質感を、現代の技術によって(例えばガス釜で)巧みに復元する代わりに、梶原は、いわばタイムマシンで、現在へ連れて来られたむかしの陶工になって、古唐津、桃山陶、李朝…を産みだした原理(土と釉薬の組成、窯の構造と焼成)を再現する。
日本の現代陶芸は、1920年代から30年代にかけて展開した二つの運動、すなわち、柳宗悦らの民藝運動と、荒川豊蔵、加藤唐九郎などによる桃山陶復興に発している。前者は、朝鮮(李朝)陶磁を愛でる美学を普及させ、後者は、桃山陶に日本陶磁の理想を見た。両者ともに、多くの陶芸家や陶磁器愛好家の価値観に影響して現在に到っている。
古唐津は、周知のように、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れて来られた李朝の陶工達によって開始された陶芸であり、その登り窯の技術を取り入れて桃山陶は大きく発展していった。つまり李朝と桃山陶が交わるところに古唐津が存在している。時代を下れば、伝説の李参平による有田泉山の陶石発見、日本初の磁器焼成=初期伊万里へと移行していく古唐津は、日本における磁器の源流とも見なせる。また、古唐津を問う人が、直近の李朝白磁を問い、時代を遡って高麗青磁を、宋磁を問い、さらに遡って、朝鮮からの技術伝播という点で須恵器と古備前(寒風古窯群)を再考するのは当然であろう。
一つの個展に、新羅土器、古唐津、李朝、宋磁…の器が同時に並ぶからといって、梶原はあれもこれもする作家なのではない。原理主義者にとって、求心とは一つの中心に向かうことではなく、複数の源流を発見することなのだ。そしてこのような東アジア陶芸への原理的探求は、近年日韓中で行われる発掘調査が次々ともたらしている新知識とも並行している。それによって書き換えられつつある陶芸史へのアクチュアルな入口として、そして、日本陶芸を支配する二つの美意識の交点として、現在の唐津焼は活発な震源地といった観を呈して新世代の作家を輩出し、梶原靖元はその筆頭と言って良い。
従来の梶原陶芸のなかで、絵付けや装飾は、一種の空白地帯であった。梶原は、古陶磁の原理を反復するのであって、古陶磁を写すのではない。が、絵唐津や鶏龍山の「絵」は歴史上の様式であり、モチーフなので、多かれ少なかれ「写す」ほかはない。だから原理主義者としては、絵付や装飾に手を染めることは稀であったし、絵唐津と言っても遠慮がちに一筆加えただけの「絵(?)」が多かったのである。しかし今年の6月、大阪と東京の三箇所で開催された梶原靖元の新作展では、より積極的に絵付け・装飾へと向かう新傾向が見えた。絵唐津、鶏龍山、定窯を思わせつつ「写し」にはならない、自由な「絵」や刻花のバランスが開拓されつつあったのだ。
それを踏まえての今展である。一般に京都の外の作家がギャラリー器館で個展をすると、京都の老舗ギャラリーとその観客の審美眼を意識するからか、作家が良い意味で過激化するようだ ―つまり梶原靖元ならば、より原理主義的に…。それなら、今回は、絵付けや装飾のさらなる展開か、あるいはむしろ器形の面での展開か。新作の白磁香炉(天草陶石+桜葉の釉薬)の写真を見ると、唐津のようだが白磁であり、李朝のようだが、山疵にもかかわらず端正な感じは土定窯(注)のようでもあり、どこともアイデンティファイできない。梶原流の白磁ということだろう。他の作品が楽しみでならない。-清水穣(美術評論家・同志社大学教授)-
注)定窯あるいは定窯系で、宮廷向け製品以外の民間品を焼いていた窯の呼称、「土定(ドテイ)」。
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梶原氏は、古唐津を拠点とし、その原理に肉薄し、古唐津が依って来たる過去と、古唐津から拡がり展開してゆくわが国独自の寂びの美といったものを、作家的視座から追い求めておられます。そこには彼自身の一貫したゆるぎないプリンシパルが窺えます。彼の作品には清浄さといったものが宿っております。ある評者は、それを評してキレイなお尻と言っておられました。なんと言い得て妙でしょう。何卒のご清鑑をお願い申上げます。ギャラリー器館拝