平成乙羊二〇一五年
謹んで新玉の御慶申納め候
皆様ご清祥にお過ごしの事と拝察申上げます
本年も相変わりませず倍旧のお引廻し伏して
お願い申上げます -ギャラリー器館拝-
第十二回 〝遊碗展〟
今展は展示の都合上、前篇後篇に分けて開催させていただきます。
恐れ入ります。
●前篇:1月9日(金)~1月25日(日)
●後篇:1月31日(土)~2月15日(日)
遊碗展と銘打った本展も、回を重ね今回で十二回目となります。その度になにやかやと口上といいますか、この企画展につき意図するところを述べてまいりましたが、つづめれば、要は一期一会的なものに出会いたい、そしてそれを機縁として作者の方々と、ひいてはお客様との交感ができればという思いが根っこにありました。それを媒介するものが茶碗というわけです。〝遊碗展〟と銘打ちましたのは、茶碗となると身構えるといいますか、敬して遠ざけるといった作者の方もなかにはおられましたので、まあ遊碗といって韜晦(とうかい)したわけであります。あの人にも茶碗を作らせてみたいという魂胆なわけです。しかしきっと見破られていたことでしょう。あと〝遊〟という字でもって、茶碗のイメージや規矩からの逸脱という意味合いも込めたつもりです。自由な心境で作っていただきたいと思いました。毎回平均で三十名前後の作家の方々が出品して下さいましたので、延べにすれば四百名は超えるでしょう。目に焼きつくような茶碗が思い出されます。
それにつけても茶碗というものは、つくづく不思議な物だと思います。いわんや、いかがわしいものでさえあります。たとえば、わけのわからない付加価値が加味されたり、中身よりもお墨付きがものをいったりといった茶碗周辺の事柄があります。しかし考えてみますと、いかがわしいといった見方がされたりする陶器がいったい他にあるでしょうか。非常におもしろい現象だと思います。この事はひとえに茶碗というものの過去にその由縁があるのだと思います。
要するに、茶碗は単なる物ですが、その過去におびただしいエピソードを蔵しているということがあると思います。だから格別の物となったのでしょう。あるいはいかがわしくもなったのでしょう。この数百年という時のあいだにです。この長きに耐えられたのは、いうまでもなく茶道があったからです。筆者は以前に、茶碗の不思議さについてこう申したことがあります。「なぜ茶道が数世紀を経ることができたのか。それは背後に膨大な物語を蔵しているからである。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、偉大なストーリーを宿しているからである。それは人はいかに生きるべきかという物語であり、生命より上位の価値についての物語であり、宗教的救済とか開悟を示唆する物語である。そのなかで、茶碗という物は、物でありながらいわば狂言回しの役割を演じているように思われる。壮大な叙事詩の完成に欠かせない役回りを演じているのである」。
またご大層な話になってきましたが、しかし茶碗という物が、私たちの文化の精華の一つであることは言えると思います。だから独自の感性、美意識でもって私たちはそれを見て、取り上げるのだと思います。見立てという前衛的行為もあえてする。そして観照します。その観照から反射してくるもののなかに、私たちはなにものかを感得するのでしょう。やっぱり茶碗は単なる碗、ボウルのくせに不思議な物です…。毎度手前勝手なこと、同じような繰り言を申しておりますが(ほとんど前回展の口上の引き写しであります)、これも恒例ということにて、歌舞伎の前口上のようなものと思し召し下されたく、ご寛恕を願い上げます。ご清鑑賜りますれば幸甚至極に存じ上げます。草々頓首。-葎-
●前篇出品作家(五十音順)
市野雅彦 内田鋼一 奥村博美 隠崎隆一
加藤委 金子信彦 鎌田幸二 金憲鎬
鯉江良二 佐藤敏 諏訪蘇山 滝口和男
武腰潤 竹中浩 長谷川直人 升たか
松本ヒデオ 三原研 柳原睦夫 山田晶
●後篇出品作家(五十音順)
池田省吾 泉田之也 伊藤秀人 稲崎栄利子
今泉毅 植葉香澄 大江志織 桶谷寧
兼行誠吾 川端健太郎 桑田卓郎 高間智子
丹羽シゲユキ 堤展子 中田博士 原菜央
福本双紅 堀香子 村田森 安永正臣
(以上前篇・後篇四十名)