「八木さん、ところで今、走泥社でもっとも期待できる新人といえばだれになりますか?」
「まあ、佐藤敏君やろな。あいつはなかなか面白いことをやりよる」。
唐突だが、四十数年前に交わされた八木一夫と乾由明とのやり取りである。乾由明氏とは近現代陶芸の評論における泰斗その人である。八木はそれ以上なにもいわなかったが、きっぱりとした断定的な口調でそういったらしい。当時佐藤敏は三十代だったと思う。八木は五十前後か。才気煥発、時機と人の縁、それに舞台を得て大いに気を吐いていたのである。八木一夫と佐藤敏の二人の間には、世の常のそれではないが、ある種の師弟関係のようなものがあったのではないか。のみならずおたがいに刺激し合う仲でもあったように思われる。1979年に八木が無念にも急にこの世を去ると、佐藤はさっさと走泥社を抜ける。さもありなん。この人らしい。佐藤は最近こういっている。「射るべき矢は持っていたが、当てるべき的がなくなってしまった」と。この人はしばしば独特な言い回しで、いい得て妙なる寸言を吐く。八木一夫との邂逅がいかに大きなものであったかが窺い知れるのである。
私事にわたるが、思えば筆者がBIN先生との辱知(じょくち)を得て、かれこれ三十年近くになろうか。してみれば、あれよと三十年という日月は過ぎたのである。筆者のほうがだいぶ若輩ではあるが、三十年といえば人の一生といえなくもない。ただここ十年余りは、別にことさらの事情はないのだが、BIN先生とは、縁遠くなっていた。しかし最近ひょっこりお出ましになった。不意のご来訪、久闊(きゅうかつ)を叙するにも、往時を思い起こせばお互いさまに少々煤けてしまっていて、対座すれば形影自ら相憐れむの体であった。
「いや先生、ここももう三十年を越えましたよ。いやになってしまいます。よう続いたと思いますが、結局自分は何者にもなれへんかったですわ」と口走る。BIN先生のほうは知らず、顧みて宿昔青雲の志は蹉ダ(さだ)たりなのである。BIN先生は一拍無言であったが、それから話柄はあっちへ飛びこっちへ飛んで、ついに歓談におよび十数年を経ながら尋常に久闊を叙することができたのである。
ものごとはなにごとも人との出会いから始まる。京都でいえば仁清乾山、頴川(えいせん)木米、ちょっと開いて八木一夫と連綿するものがある。生きている人であろうと死んだ人であろうと関係ない。親しもうと思えば芋づる式に友の友は友となれるのである。BIN先生は、八木一夫とは生きて交わることができた。八木一夫のもっとも八木一夫的なる部分を、八木一夫のレベルでこれほど備えている人はいないだろう。すなわち諧謔、飄逸、センスオブユーモアといったもので、これらは芸術に必須の核心的エセンスである。これらを一身で体現して如実の人は今となってはなかなか見当たらない。BIN先生も八十近くになった。思えばはるけきなりである。しかしながら、その精神は押し寄せる時間によく耐え、なお瑞々しくヴィヴィッドに躍動している。まこと当節、手本とも仰ぐべきオールドエイジャーであり人品骨柄なのである。今展でも、それを裏付けて下さるものと思われて、先生の作品の到来を今しと鶴首いたし云爾(しかいう)。
経歴・招待展抄録
1988~96 京都精華大学美術学部教授
1996~02 京都市立芸術大学工芸科教授
1966~80 走泥社展
1977 現代美術の鳥瞰展(京都国立近代美術館)
1979 今日の日本陶芸展(アメリカデンバー美術館)
1982 現代陶芸・伝統と前衛(サントリー美術館)
1986 米国東欧巡回日本陶芸展
1991 現代の陶芸1950~1990(愛知県陶磁資料館)
1993 現代の陶芸・うつわ考(埼玉県立近代美術館)
2001 京都の工芸1945~2000(京都&東京国立近代美術館)
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