エロースというのは、古代ギリシャの神々の名の一つで、アフロディテの子とされている。女神だと思っていたが男神らしい。のちのキリスト教のエンジェルの原型である。母のアフロディテは愛欲に溺れるタチで、淫乱の気があったらしいが、エロースは、エロースも愛と恋愛の神ではあるのだが、母とはちがってその愛は、もっと深化された多様なもので、理想というのか、つまりイデアをめざして向上していくものとしてそのように物語られている。あるいは解釈されている。わが国では、昔は〝エログロ〟とか、今どきは〝エロい〟などといってエロースを下世話なイメージに貶めてきたように思われる。今も多くの人はエロースといえば、助兵衛をつかさどる神くらいにしか思っていないのではないか。たしかにエロースの初歩は、なかにはいい年をしたおっさんもいるが、若い魂が、ホルモンに振り回されるというような段階をいうのかもしれない。たいていの若者はそこで多くの苦悩や悔恨を経験したりする。身をあやまり破滅にいたることもある。しかし本来エロースが私たちに求め、私たちを試し、導こうとする目的地は、なにかもっと次元のちがう愛に満たされた歓びの世界なのである。
エロースの愛はつねに美なるものに注がれる。美はいつもエロースといっしょなのである。エロースが美をさし示し、美と私たちをかたく結びつける。美が生き生きと輝きを放つのはエロースの働きである。ただし私たちのほうでも、心が積極的に燃えなければ、美もまた輝かないだろう。そしてエロースは私たちを美の冒険へと駆り立てる。それは命さえも危うい剣呑な冒険かもしれない。しかし冒険する気概を持たなければ、人生は精彩を欠いものとなるだろう。いくつになっても能動的に美を希求し、美を愛する熱情を持っていたいと思う。ただし耽美派というのでは不健康である。エロースにもいろいろなステージがあるのである。高められ純化されねばばらない。雌雄の情に耽溺するだけに終わってはあまりにも空しいのである。芸術もエロースなしでは考えられない。高められた段階のエロースが、人を制作や創作へと向わせる。
植葉香澄の展も今回で八回目となる。指おり数えれば十年の日月が過ぎている。この間の彼女の活躍はめざましく、その名は遠くまで響き渡るまでになった。彼女とその仕事の独特なところをもう一度述べさせていただくなら、例えば●クラシックパターンを織りまぜつつ、アタリもつけずに無造作にかたっぱしから色絵付けをしていくスタイル、●装飾ということへの暴力的ともいえるアプローチ、●デザインとか計らいといったものを超えたあっけらかんとした無為ともいえる作品の様子、●それでいて出来上がったものは不思議に一つのコスモス的秩序を呈していること、などが思い浮かぶ。これらは生得のものといえる。もう一つ彼女の仕事の〝前衛性〟をいうならば、●この手のやきもので、この手というのは京焼も含めた洗練とみやびの京都的伝統に連なるところのものであるが、その京都的なるものに対し、意識しているかどうかはわからないが、彼女なりの〝否定〟を加えながら、彼女一人の独壇場において、バーバリックなまでの美へと作品を昇華し得ているということがいえるのではないか。これは止揚(しよう)というに値する行為なのかもしれない。
初回展から十年が経った。引っぱり凧だったこの十年ともいえる。あのような仕事である。ともすれば彼女は疲れたような顔を見せることもあったが、なに心配ないといってあげたい。彼女の一所懸命さと美を求めるピュアな魂は、エロースの加護にかなうはずである。彼女はこれからもこの神の応援を受けて、なにかを生み付けるようにして作品を作りつづけていくだろう。もの作る人に年はない。これからもつねに精神のリフレッシュを忘れずに続けていけばよいのである。ときにエロース神が課する向上のための試練も乗り越えて行っていただきたい。話がミュトスめいたものになってしまったが、運よくエロースは男神でもある。だからして嫉妬はされないだろう。植葉は、エロース神から生涯見放されることはないような気がするのである。それももの作る人としての彼女の徳のようなものなのかもしれない。-葎-
Kasumi UEBA
1978 京都府生まれ
平成13年 京都市立芸術大学美術学部陶磁器専攻卒業
2002 京都市工業試験場陶磁器コース修了
平成15年 京都府陶工高等技術専門校卒業
2005 個展(ギャラリー器館)
2008 パラミタ陶芸大賞展入選
2009 現代工芸への視点―装飾の力
(東京国立近代美術館工芸館)
2010 Take Action Foudation展にて
奈良美智氏、中田英寿氏とコラボレーション制作
(滋賀県立陶芸の森/茨城県陶芸美術館)
2011 京都府文化賞奨励賞受賞
2012 京都市芸術新人賞受賞