●出展作家(敬称略)
浅野哲 池田省吾 石山哲也 大江志織
隠崎隆一 梶原靖元 片山亜紀 加藤真美
鎌田幸二 桑田卓郎 鯉江明 小坂大毅
佐藤敏 下村順子 田中孝太 田淵太郎
堤展子 津守愛香 出口ふゆひ デレックラーセン
中田博士 中村譲司 楢木野淑子 畑中圭介
花塚愛 原憲司 升たか 松本治幸
村田彩 山極千真沙 吉川充(以上31名)
佐加豆岐の展パートⅦ
この世には酒を飲む人、飲まない人、飲めない人がいる。飲む人のことをいえば、のべつ飲む人がいる。日常的に大酒飲んでも大丈夫な人もいるが、なかにはアル中になる人、身を持ちくずす人、はては酒と心中までする人がいる。あちらの神さまでいえばバッカス神に魅入られたか。こういう人たちは、もともとナイーヴで性善なる人が多いのかもしれない。こんど生まれ変わったら酒樽しょって生まれておいで。
一方で、おりおりに飲む人がいる。飲みたいとき、飲むべきときをわきまえ、静かに酒をよき友とし、人生のうちに美酒を味わっている人がいる。どっちがえらいとか賢いと言いたいのではない…。
飲まない人とはどういう人だろうか。葷酒山門に入るを許さずということで、修行中の坊さんは禁じられているようだ。まあ疑わしいが、この戒律を自らにきびしく課している坊さんもいることだろうと思う。ちなみに葷酒のクンとは、ニラやネギ、ニンニクの類で、これらは心を乱すものらしい。精力がつくからだろうか。あと、飲み過ぎで医者に止められた人なども飲まない人といえる。忠告に従って飲まないという意志をもって飲まないのである。ただし飲もうと思えば飲めるわけである…。
飲めない人は、はなから飲めない人がいて、これらの人は遺伝的に肝臓にアルコールの分解酵素を持たない人なのである。下戸という。こういう人が飲める人を羨ましがってか、あるいはくやしく思ってか、修行してだんだん飲めるようになることがあるが、これは非常に危うい。飲めるようになったのを、あの人は飲み上がったとかいうが、このタイプの人に肝臓をやられる人が多い。筆者の知る範囲でもそういう人がいた。飲む人飲まない人飲めない人、良い酒悪い酒、人それぞれに酒との縁は千差万別である。
私事にて恥じ入りますが、筆者のことを当てはめてみると、まず飲む者であるし、相当飲める口でもある。しかし酒がたまらぬほど好きというわけではない。だからのべつは飲まない。まあ一二週間に一度くらいのものである。おかげで生き永らえているのかもしれない。しかし飲めば内なるバカを発揮してガバと飲んでしまうことがたまにある。記憶を飛ばしてしまうことがある。翌朝いたたまれなくなる。失礼の段を働いたのかもしれないのに、それを自知できないのである。あとになってなにを口走ったやら、やったやらを聞くわけにもいかず、暫時失ってしまった自己同一性を回復するすべもなく茫然自失する。穴があったら入りたいというのはこういう状況なのかと、経験にならぬ経験を重ねて自己嫌悪に苛まれるわけである。
私たちは皆、快苦ということでいえば根本的に快楽主義者であろう。快と苦は裏腹の関係にあるが、快に傾斜するのが人の常というか人情である。進んで苦を取る人はあまりいないだろう。酒にはたしかに破滅的な恐ろしい一面がある。しかし毒には人を引き付ける魔力のようなものがある。そして酒はときに美味である。甘露である。発酵作用による滋味や旨味にも抗しがたいものがある。そして酩酊する。陶然たる浩然たる境地にいざなわれる。他者関係を修復あるいは潤滑ならしめる効用がある。酒は神との連絡にも使われ神聖視されもする。祭祀儀式、人間関係の劇的な場面にも酒は登場する。そこから詩さえも生まれることがある。酒の功徳というものはあるのである。まこと不思議な液体である。
古人の書いた酒にまつわる詩でこんなものがある。教訓的なものと、人間関係の美しい一瞬を切り取ったものである。
〝一杯人ガ酒ヲ呑ミ 三杯酒ガ人ヲ呑ム 是レ誰ノ語カ知ラザレド 吾輩ハ紳ニ書ス可シ〟
(第四句は自分の帯(紳)に書き込んで心に銘記しておこうというほどの意:菅茶山)
〝日々人ハ空シク老イ 年々春ハ更ニ帰ル 相歓ブ尊酒ノ在ルヲ 用イザレ花ノ飛ブヲ惜シムヲ〟
(同じく第四句は、散りゆく花を惜しまないでおこうの意:王維)
この二首を酒神にささげて酒への賛といたしたく思い云爾(しかいう)。
この度も何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。-葎-