このページの写真数葉は、色々なアングルから撮ったものだが、この作、茶碗のナリでいながら、茶碗の最外延の概念というか垣根をゆうに踏み越えているような風情で、またオールアラウンド、包括的な佇まいに視点が泳がされてしまうということもあって、ゆえにDMに使う写真の選択には大いに迷わされた。白金彩が効いている。辰砂、青、萌黄といった釉彩は、掛分けと重層を見せて見事に美である。高台は、青のリングで締め固められ、上部の多の世界を支えるかのごとくである。プリーツにいたっては、磁土の矯(た)め殺しに超人的な手わざを見る。この手の仕事は以前からあるものだが、筆者はこの一碗が送られてきたとき、なにかこれ一つで充足させられたような気持ちになった。相変わらず川端のオリジナリテは屹立しており、さらなる上昇が窺われたからである。それにしても筆者にはこの碗が、生命のうごめきを秘めた生きもののように思われてならない。
川端の目は、生けるものへ向けられている。彼の創作のモメントは生命に対する全肯定、謳歌にあるように思う。彼の作には、彼独特の観察眼に映えるものが生き生きと盛り込まれている。昆虫や鳥獣、植物などの、生命の律動の充満した部分が取り出され、総合されたような様子である。たとえば器官や触角、萌芽やつぼみといったものが全体を構成する部分として、あるいはオーナメントとして宝石のように散りばめられる。そしてエロース的美の高度な境域へと引き上げられているように思われるのである。しかしそこには複眼的に死というものも見据えた、生へのまなざしがあるように思う。造化の妙というか生命に息づく美は、最初に見られたときのままに止まってはいない。やがては、あるいは見る見るうちに壊れ滅びゆくのである。しかしながら、一瞬であろうと、この世のうつろいゆく美の諸相に、生死を超える永遠の相を見出すこともできるのではないか。
川端の目は、対象の奥の奥まで届く目のように思われる。そこに彼はなにを感知するのだろう。造化の妙の不可思議性、不可説性といったものであろう。だからいわく言いがたいものであろう。それは彼が見る対象の、奥底に宿る心魂のようなものとしか言いようがないのかもしれない。なにか話が宗教じみてきたが、彼のようなタイプはそのような意味で、永遠の相を秘する心魂に、頻繁に近接できるような素質の持ち主なのかもしれない。こういう人は幸いである。
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川端氏の作品の因って来るところは、その純粋で清浄な心だと思います。それは非常にセンシティヴな感性に満たされているように思われます。そして自然の不思議とか美を省察するミクロな、行き届いた観察眼を生来備えているように思われます。それらに対する無垢な憧れや驚きを宿す心の持ち主であると思います。その心ばえを、高度な技術をわがものとした上で作品へと結実させています。
ユニーク無比、川端ワールドとでも呼べる新作に期待大であります。何卒のご清鑑をお願い申上げます。
写真の作品は「白磁辰砂白金錦彩綴化茶碗」と銘されております。綴の字はテツと読み、作品のプリーツ部分を意味します。
葎