内田鋼一は、たしかに陶芸家である。しかし彼が触手をのばす素材は、土だけにおさまらない。必要とあらばいかなる異素材も自分の世界に引き込んでくる。やきものを中核に据えて、そこから同心円状に異素材を取り込みながら、取り込むがゆえに、彼の作品世界は空間的な広がりを見せて行く。普通なら収拾がつかなくなってしまう。素材相対主義を地で行ってさまになっている稀有な作家あろう。しかしあくまでやきものがコアである。彼は自分の作るやきものが、最もそぐう空間を意識してやきものを作っているのだと思う。実際そのような空間、場を、一人で現出させてみせることがある。そのような彼を筆者は畏敬の念をもって長年見てきた。
今年彼は、山口県の周南市沖合の離島、大津島という島で、一つの茶室をプロデュースし、完成させてきた。茶室の名は石柱庵。披露の茶会も済ませたという。もちろん地元の人の協力があってのことだと思うが、彼がプロデュースし、ディレクトして成った仕事といえる。ちなみにこの茶室は、本年度のグッドデザイン賞を取っている。この一事からも内田の〝陶芸家〟でありながらの、いわば〝総合性〟といったものが窺われる。見渡しても余人にこんな陶芸家は発見できないのである。
彼の個展も今回で四回目となる。筆者は、過去三回の個展や、折々の接触を通じて、内田の人となりとその作品、そして彼の生き方といったものを筆者なりに理解しようとしてきた。彼の理解者の一人でいたいと思うからである。そしてその都度思うところを、毎度恥ずかしの作文にしたためてきた。いま読み返してみると、彼のことでいいたいことは、これはこれで言い尽くしているようにも思われ、さらになにをか言うべきという思いにとらわれる。表層的なほめ言葉ならなんぼでも埋草できるのだが、筆者はなるべく出来れば本当にいいたいことを述べたいと思っている者でして、しかしながら本当にいいたいことなど、実は指折り数えるくらいしかないと毎度痛感して今も立ち往生している。とっくにネタ切れをきたしているのである。
ここでもう一度振り返れば…、内田は少年のころ相当荒れていたと聞く。へたしたらヤクザの道を踏みかねないので、無理強いみたいに瀬戸の窯業高校へ入れられたらしい。本人は窯業を洋業と勘違いして、これからマグロ船にでも乗せられるのかと思ったらしい。人生は偶然のかたまりである。あとであれは必然だったと言うのはそう思いたがるからである。未来のことも、過去のことも偶然というベクトルを無視することなどできない。内田の場合も、どういう風の吹きまわしか、この道のとば口に立つようなことになったわけである。そして学校を出た後、内田は彷徨を始める。野生は一所安住を嫌う。いまだ自己の内なる野生馴致(じゅんち)しがたしといった体で、東南アジア各地、インド、アフリカ、ヨーロッパと巡り歩く。そして訪れた各地で、単身やきものの村に入って行き、仕事をさせてもらう。いくばくかの労賃をかせぎ、土地の人情にも触れた。ヤバイ目にもあったのだろう。この時期の行動と経験によって、彼の足場は固まったように思われる。彼は覚悟了見したのではないか。自分はこうである、これからもこうあらねばといった自己同一性をおぼろげにも掴んだのではないか。自己のアイデンティーを欠く一貫性のない人に芸術は無理なのである。
内田もたしか今年四十六になる。彼は数年前に、琵琶湖西の比良山系のふもとに穴窯を築いた。結構しげく窯焚きに来ているようである。四日市のほこりっぽいところから、比良の山深い自然のなかで窯を焚く。彼はさらにそこで何思う人となるのだろう。おのれの生き方とか存在というものを、自然との対比において考えたりするとか…。あるいは天地自然の間にわが身をおいて、それ自体において存在し変化していくこの世界、コスモスの永遠性といったものに思いを馳せたりしているのだろうか。比良のふもとの仕事で、彼は収穫を得つつあるように思われる。ここでも彼の来し方の経験による確固たる自己同一性、一貫性がものをいっているのである。筆者などは何回経験してもそれが経験とならない。内田は、おのが経験を経験となせる人である。そして彼の来し方において経験された物事は、彼の血肉となっていよう。内田の作品は、真摯で広範な行動と、それによる経験から生み出される。彼の想像は、彼の血肉のうちから湧き出てくるのである。血肉から出てくるものだから、この人の作品には確乎たる自己が刻印されていて、ああこの人が作るものならさもありなんと、また作品がどう変遷しようと、そこに内田鋼一という一個の人間が如実に映し込まれているのである。-葎-
内田鋼一展Koichi UCHIDA
Imagination from Blood and Flesh
10/24 Sat. 〜 11/15 Sun. 2015