取っかかりから変な話で憚るが、昔、ズボンの前を上げ忘れたりしたら、社会の窓があいてるよと言われたものである。なにが社会の窓なのかよくわからないが、いまはあまり言われなくなった。この世はなにごとも所詮色と欲ということでもあるから、その辺の係り結びみたいなことでこういった俗語が広がったのかもしれない。それにしてものぞきたくもない窓である。社会の窓ならほかにもある。いわゆるマスコミ、新聞とかテレビがその代表で、私たちはほぼ毎日その窓をのぞいているのではないか。そして気持ちを害されることが多くなってきているのではないか。近頃は、パソコンとネットが合体したブラックボックスがそれに加わった。スマートフォンというスマートな携帯もある。こういったものに執著せず、窓を窺わずして世上を知る、といった境地が理想かもしれないが、ついつい時間つぶしに、あるいは情報を欲しがって、窓の前に居座ってしまう。このとき私たちは完全にパッシブな状態にあるわけで、ただただ情報のシャワーを頭から浴びせ掛けられるのである。そしてずぶぬれになって、夜ふけに疲れた気持ちで布団にもぐりこむ。見てしまうのが悪いのだが、なにか心をよごされたような気持ちで寝苦しく寝入ることも多い。見なけりゃよかった、聞きたくもなかったものに、ご苦労さんにも付き合って、むやみに時間を安売りするのはあほらしい。だから、筆者などは、いつかこれらの窓を全部完全にシャットダウンして押し売りご無用とし、窓を窺わずして、せめて知らぬが仏でいきたいと思ったりしているが、なかなかふんぎりがつかないのが情けない。筆者も同じ穴の貉(むじな)かと知って忸怩たる思いにとらわれるのである。見物のレベルもそうだが、それに歩調をあわせるように、窓の向こう側の人間の程度も加速度的に落ちてきている。近頃とみにそうではないか。
本当に大切なものと、どうでもいいもの、麗しいものと、みっともないもの、いわば美醜、正邪、善悪のあいだの価値の差別が全くなされずに、いやそもそも送り手側がその能力を欠いた状態で、いろんな情報が濁流のように押し寄せてくるのである。人はその濁流に乗りおくれまいとして飛び込み、アップアップしながらフォアグラのように情報を無理やり口に押し入れられている。マスコミは、多様な価値観を提供するのがその本務とか言うが、そのなかで一体どのような価値をファンダメンタルとしているのか。多様な低価値観なるものが、人の心を惑乱させているのである。まあマスコミは、現代の諸悪の根源といわれても仕方がないのではないか。コマーシャリズムの権化が、正義の権化を騙(かた)っているのである。眉毛につばをつけていないと、私たちは再びあらぬところへ連れて行かれかねないのである。
とまれ最近の窓から入ってくる情報には、ほとほと気を滅入らされる。だから筆者は前述したように、ここらで窓を閉めて、生き方の方向を変えたいと思います。風流に生きたいと思います。最も確かな価値、美に救いを求めようと思います。美醜の価値判断ではあまり迷うことがありませんから。好悪、好き嫌いの問題ですから。これが正邪善悪となると迷いがあり多くの判断ミスを犯してしてきたように思います。そこまで人間が上等ではない証拠です。だから一つの大価値、美というものにつき従いたいと思います。ただ筆者にも実際の生活というものがありますから、風流のみに生きることはまあ不可能でしょう。乞食をするならいざ知らず、手許の金も不如意です。だから在家の美の信者でいきます。在家でもできる精進を、残り少ない将来でやっていきたく思います。皆様も如何でしょう、お奨め申上げます。同志は多いほどいいのですが、筆者はこれからの子供たちにも同志になっていただきたい。教育の目的は、好ましいものを好ませ、好ましくないものをにくませて、よい結果を得ることにあると言ってもいいのではないでしょうか。その目的のためには、説教するよりも、むしろただ美しいものを見せるのです。真に美しいものをがんがん見せるのです。効果絶大だと思います。結果、子供たちは長ずるにつれ、卑俗なもの、下劣なものの峻別が出来るようになります。彼らの心は、美に満たされているからです。そしてあらゆる物事に対して、抽象的な美さえイマジンできる心を持つことになると思います。そしてひいては、彼らには美のインスピレーションを大いに発揮してもらって、みっともない法律とか美しくない都市、醜悪な政治やマスコミにいたるまで、彼らの美意識から派生するよき諸価値によって、私たちの社会の有り様まで美しく整えられることになると、そのような気がするのです。もちろん美の司祭ともいえる芸術の人には、私たちの先頭に立って、美しくも善きものをこれからも呈示してもらわねばなりません。その任や大なるものがあるのでしょう。それでは…。
葎
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高柳むつみ展は今回で三度目となります。彼女の稀有なる天稟を三年間見続けてまいりました。今回もその機を得たことは、紹介者兼理解者として、大変誇らしくも嬉しく思っている次第であります。
写真の作品は、3ピースから成っております。タイトルは〝星の風吹き・いづる〟と銘されています。各部はすべてロクロ成形です。まるで金型で取ったようにミリ単位以下の精確さです。でないとこうはアサンブルできません。そして本焼き段階で釉着させています。コバルト色の半球部には、同色の顔料で描いた浮き彫りしたような雲気文がみられます。星の雲のようです。下の半球部はプラチナ彩。そして、レリーフ状の花卉文には、呉須、白金、九谷青、赤を用いて、文様が下絵上絵にとほどこされています。外周を巡っている白磁のかざぐるまといいますか、フィン状のものは、これもロクロ成形ですが、風が吹けば回り出しそうな様子で、ぐるりと切れ込みが入れられております。その一枚一枚の羽根の曲がりようは完全に揃えられております。この白磁のフィンは、球体のなかほどで止まっておりますが、まえもって球体に段差を2~3ミリでしょうか、つけているので、その上に乗っているわけです。以上、ことほどさような作品であります。彼女の腕に感服します。彼女の詩藻といったものにも、深いものを感じざるを得ないところであります。
何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。
ギャラリー器館拝