平成丙申 謹んで新玉の御慶を申上げます
本年も相変わりませず倍旧の御引廻しの程伏してお願い申上げます
ギャラリー器館拝
時間旅行 -梶原靖元展に寄せて(清水穣)-
一九三五年、中里太郎右衛門(のちの無庵)のもとに寄留していた石黒宗麿は、大原美術館の初代館長竹内潔眞(きよみ)にあてた手紙(三月十七日付)のなかで、現地にて古唐津の美を発見した感動を伝えている。「唐津は今迄私等の考えて居たものとは全然異なって居りました。もっともっと素晴らしいものでした。二三の聚蔵家のもの、初期のものを拝見して驚きました。決してキタナイそして亡国的な、茶趣味な、隠遁的なものではありませんでした。実に強靱な、するどい、そしてあかるいものです。…中略… 世界中の陶器のうち何と考えて見ても第一等賞ものでした。何処へも行きたくありません。此処はやがて私の骨を埋めるところ、この土の中に眠れたら魂が喜びます」(1)
伝世の磁州窯や吉州窯にせまる黒釉や天目、豪放とも枯淡とも言い切れぬ独自の絵付や装飾、そして、最晩年の迫真の楽茶碗で知られる陶芸家が、古唐津に「第一等賞」を与えるばかりか、そこに終の棲家すら見出している。石黒はいくつかのすぐれた斑唐津や絵唐津をのこしているが、それはこの時期のものではないし、全体にそれほど多くの作品が唐津焼にささげられているわけではない。その反面、石黒のような本質志向の人が、たんにいっときの昂奮から「魂が喜ぶ」とまで口走るとも思えない。ということは、石黒が驚喜したのは、まさに彼が追求し続けた陶芸の「魂」を古唐津に見出したからだといえるだろう。石黒陶芸とはその「魂」の表現であり、それは見かけ上の唐津焼に限定されるものではなかったということである。
一九三〇年代は、日本の近代陶芸の成立期であり、現代にまでつづく日本陶芸の美意識の源流でもある。周知のように、そのひとつの流れは民芸運動と、それに付随した李朝ブーム、もうひとつは桃山陶再興であるが、興味深いことに、この三者はそのまま石黒陶芸の空白に相当する。石黒宗麿は、民芸運動に興味を抱いた時期もあったようだが、結局は柳宗悦にうとまれ(「柳さん程私を憎んだ人は珍しい」)(2)、やがて民芸に対する評価の違いから大原孫三郎や竹内潔眞とも疎遠になった。染付は石黒陶芸の空白地帯であるし、志野や織部のようなゆがんだ造形は石黒の選ぶところではなかった。他方、ごく数点の例外をのぞいて、石黒宗麿はいわゆる宋代の青磁白磁の美を追求した作家でもなかった。つまりどれも石黒にとっては「強靱な、するどい、そしてあかるいもの」ではなかったということになる。
石黒陶芸の空白を解釈してみよう。まず、磁州窯も吉州窯も民窯である。石黒にとっては、民窯に発した陶芸の力強さ、するどい独創性、そして大らかな明るさのほうが、官窯の青磁白磁の洗練に優るものであったと(ゆえに民藝に一時接近した)。つぎに、石黒を驚嘆させた古唐津は、茶陶として洗練された古唐津ではない。「キタナイ」「亡国的」とまで呼ばれている質とは、「私等の考えていた唐津」を愛でる人が誰でも口にする「土味」のことだろう。ということは、茶陶以前、美濃陶に影響される以前の初期の唐津である、と(だから美濃陶の意図的にゆがめられた造形を採らない)。それは、朝鮮から渡来させられた陶工によって開始された。彼らの連房式登窯の技術が美濃へ伝えられて、織部焼を発展させたことは知られている。すなわち初期の唐津は、染付以前の李朝陶磁と桃山陶の交差点に位置している。唐津はやがて初期伊万里へと道を譲っていく。染付に手を付けなかった石黒は、白い磁土にコバルトという世界には陶芸の本質を見なかったことになる。
以上をまとめれば、石黒宗麿は、粉青沙器や、民窯の器であった高麗茶碗の中でも、最初期のジャンル(刷毛目、三島、粉引、堅手、井戸、熊川など)と連続する、発生期の唐津に感動し、そこに陶芸の本質を見た。それは、ガラス化・透明化へと向かった磁器でもなく、「土味」の陶器でもないものとして理解される。ガラスものでもなく、土ものでもない陶芸としての唐津とは何か。
もはや「周知のように」と言っても良いだろう(3)。梶原靖元は、その問に答を出した人である。焼きものは粘土で成形される。粘土(山土)とは岩石が風化堆積してできたものであるから、すべての焼きものは、いわば「岩もの」である。花崗岩が風化した「沙土」を使えば沙器、砂岩が風化した粘土を使えば唐津だ、と。その梶原陶芸は諸種の唐津はもとより、刷毛目、粉引、堅手、井戸、奥高麗、さらに汝窯、鈞窯、定窯、果ては新羅土器にまで作風を広げ、いわば発生期の唐津という陶芸の交差点からさまざまな陶芸の起源にさかのぼって創作の糧としている。二年ほど前までは絵付が一種の空白地帯となっていたのだが、その後独特の「絵唐津」や「鶏龍山」が生まれて見事に空白を埋めた。
さて、新作の一つ(写真の粉引)は、粉引の雨漏茶碗である。新品に雨漏りがあるわけはないから、染めたのだろう。これはいったいどういう展開だろうか?
以前、陶説にも書いたことだが(4)、写しを行う陶芸家が最初から四百歳に見える器をホウ製しようとするのとは対照的に、梶原陶芸は、いわば四百年前の陶工になって、当時の技法で新しい粉青や唐津を作り出すものである。他方で、われわれは年月を経た粉青や古唐津の美をも知っている。おそらく梶原氏は、窯から出てきた新品の二十年後、三十年後の姿に興味を持ったのだ。そしてタイムマシンに乗せて数十年の時を進めるように、窯出しの器に染料を流し入れたのである。氏の関心は古色の見かけではなく、その器が使われていく時間経過の効果にある。氏によると、タイムマシン効果は、窯出し直後の一回きりで、いったん冷えた器ではもう効かないという。この操作は雨漏の隙間をふさぐ効果ももつから、二〇一五年の新作が帯びている、先取りされた未来の雨漏は、おそらくその未来が来るまでは変わらない。さりげなく面白いことをするのが梶原流である。時間を進めて器に「抽象的な絵付け」を施すのだ。(美術評論家・同志社大学教授)
註1.小野公久『評伝石黒宗麿-異端に徹す』
註2.同書103頁
註3.すでに『炎芸術』124号「唐津の新世紀」で特集されるほどであるから。
註4.『陶説』第724号