自己を追いつめ追いつめして、余計なものをふるい落とし、自己の命そのものと外界一切との不二を知るというのが禅宗の大目的と思う。また釈尊が菩提樹の下でカツ然と悟った境地そのものへの近接というか、そこへ回帰しようというのが禅宗の本旨と思うが、これで当らずといえども遠からずかどうか、いいかげんなものでわからない。とまれ己事究明、すなわち自己を知るということが、禅にとっての第一義なのだろうと想像している。「…自己の皮肉骨髄を脱落するとき、桃華眼睛づから突出来相見せらる。竹声耳根づから霹靂相聞せらる(正法眼蔵自証三昧)」。眼睛とは目の瞳、霹靂は、晴天の霹靂(へきれき)というときのそれである。行住坐臥、かさねる修行のなかで、桃の花が目ン玉の奥から飛び出てくる、竹に石が当たるコツッという音が、耳の奥のそのまた奥から響くといった、外からではなく内奥から覚知される境地、そういった卒然たる、あるときにガラッと目が開かれるといった悟りの瞬間は、イリュージョンかも知れないが、筆者はそのような体験は現実にあったしあるのではないかと思っている。問題はその境地のまま自己が定まるかどうかなのではないかと思っている。たいがいは元の木阿弥になってしまうにちがいない。しかし何度でも桃華竹声まで行けと禅は教えている。そこまでは自力道である。甘ったるいものではないのである。
自己を知るとはどういうことか、知れば安心立命できるのかどうか、そう単純な話でもないと思う。分際を知れ分際をというが、これもある種の自己を知るということかもしれない。我も含め忸怩としてくるが、分際を越えて自大な言動やふるまいをする人とか国を見ると、非常にいやな気持にさせられるものである。あるいは自分のどうしようもない一面、いやらしいところに気づいて反省したり自己批判したりする。これは自分で自分のなかのある部分を自己否定しているわけである。一つの自己のなかの相克というか分裂といっていいか。そして否定しつくして最後に残る自己とは何者か。そこに至って愕然とするときなど、宗教への絶対的帰依に向かう動機の秘密があるように思う。
しかし自己の非を認めたり自覚するということと、自己をただ自己自身そのものとして直接にダイレクトに知るということはちがうように思う。禅の修行はそういう自己をむき出しにしようとするものなのかもしれない。しかし自己は、合せ鏡や三面鏡のなかの自己のようなもので、鏡の奥に無限に続く自分が見える。意識のスイッチオンのなかで何かに忘我夢中になっている自分もいれば、ふっと我に返る自分もいる。自己に気づく自己がいて、一方で気づかれる自己がいる。知る自己と知られる自己が分裂している。繰り返せばアポリア―的無限進行である。狂気と正気のはざまは何ミリあるのか知らないが、私たちは自分で我に返る瞬間が持てなければ、狂気の世界へ入って行くしかないのかもしれない…。自己を凝視して何が得られるのか、自己自身をどれほど凝視したところでダメなのだろう。だから自知とは他から教えられてやっと可能なのであろう。他とは他者のことで、自己のなかの他者も含めてである。師伝に依って立つ禅の世界もそうなのではないか。
ちょっと脈絡が苦しいかもしれないが、人は生まれるときも一人、死ぬときも一人である。この一大事は、自己を知ろうとすればどうしても目をつむることのできない絶対絶命の事実である。人は絶対的に孤独ということである。そしてこの孤独は、生まれるとき死ぬときだけでなく、生きている間も抜き差しならない。私たちめいめいが見ているこの世界は、どんなに近しい人が一緒にいようと、ただ自分一人だけが見ているのであって、だれも覗き見するこのできない世界である。そういう意味で、私たちが現に見ているこの唯一の世界をなす自己というものは、根本において個別的であり唯一性を持つのだといえる。私たちの自己は、おのれの身体ハップを鏡として、全世界を映し出しているようなものといえる。それを知の自己が鏡の奥から見ているのである。これは自己の一点において全世界を、その重みに耐えて、狂おしくも受け止めているということである。だれにも覗き見されることなく…。芸術の人は、そのような自己の内深部を、外へと作品に表出させて他者に連絡する人たちだといえる。そのような際立った唯一性の世界を、今展でも覗き見させていただければと願ったりしている自分がいる…。
葎
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Nao HARA
2007 京都精華大学陶芸分野卒
2009 京都市産業技術研究所専修科修了
京都府立陶工高等技術専門校中退
現在京都にて制作
2009
遊碗展(ギャラリー器館・京都)
2010
遊腕展(ギャラリー器館・京都)
試みの茶事EZO茶会(札幌)
北の丸大茶会(東京国立近代美術館工芸館)
個展(ギャラリー器館)
2011
Wonderland Ceramics(KoyamaTomioギャラリー・京都)
奇想の女子陶芸(阪急百貨店梅田店)
個展(ギャラリー器館・京都)
現代茶の湯スタイル展『縁』(西部百貨店渋谷店)
個展(ギャラリー緑陶里内small gallery・益子)
2012
遊碗展(ギャラリー器館・京都)
個展『イヤよイヤよも数寄のうち』(Sfera・京都)
『seika精華×midori』(ギャラリー緑陶里・益子)
「ふしぎ!たのしい!ゲンダイトーゲイー親子でめぐるやきもの図鑑」
(茨城県陶芸美術館)
2013
奇想の陶芸(阪急百貨店梅田店)
2014
「日々是好日」(もみの木ギャラリー・自由ヶ丘)
個展(ギャラリー緑陶里内small gallery・益子)
現代茶の湯スタイル展『縁』(西部百貨店渋谷店)
2015
遊腕展(ギャラリー器館・京都)
RINPA400(三越日本橋店)
RIMPA400(JR京都駅ビル内京都美風)
職人解放区(伊勢丹新宿店)
JAPAN SENSES 原菜央展 (伊勢丹新宿店)
2016
個展(ギャラリー器館・京都)