この案内状も、毎月の駄文を重ねて二十年になんなんとする。実はもうとっくにネタ切れをきたしており在庫払底(ふってい)の状態で、寄せ来る波のように同じようなことをいっている気がする。作家その人と作品のことをもっと書け、作家の顔ぶれは変わるのだからネタ切れになることなどないだろうとお叱りを受けたりする。しかし作家その人と作品のことは、アクチュアリテすぎてなかなか書けないものなのである。個展をお願いしているのは当方という立場がある。お願いしておいてキチガイじゃあるまいし批評がましいことなど書けない。上面(うわつら)だけをなぜたような、どっちつかずのものは書く気が起こらないし、ご本人に対し失礼をはたらくことにもなる。読む人も歯が浮いてしまうのではないかと恐れたりする。かといって、人作品ともに心底から惚れこむような作家がこの世にいく人もたくさんいるはずもなく、それなら死んだ人まで勘定に入れねばならなくなる。だからというわけでもないのだが、多少人生論風にというか、世の中のこと、人間のこと、芸術への思いなどで埋め草するといった仕儀になってしまう。多分に理想論のきらいがある。まあエセーのようなものになるのかもしれない。しかし過去のものを読み返してみると、えらそうなことを書いているなあと思う。赤面汗顔のいたりである。こんなことばっかり書いていたら、収拾がつかなくなるのではないかと恐れられる。しかし古人もいっている、文はウソなりと。文芸以下は書かれたものがすべてで、書いたその人は残りカスのようなものであると。ということで逃げを打つしかないと思っている。どうせ自腹で出している怪文書である。マスコミの顰(ひそみ)にならって、言論の自由があるぞと開き直るという手もいいかもしれない。
ところで芸術における作品と批評との関係はいったい何なのか…。所詮作品がすべてであるなら、批評などは余計なもの、外部的なもの、どうでもいいものという感じがしてくる。一般の見物が個々に面白いとか美しいとか素晴らしいと感じれば、それでいいのだともいえる。もうそれで一つの審判が下されたということにもなるのだろう。そしてある作家なり作品が脚光を浴び、もてはやされることがある。しかし大多数の個人が面白いとか評価しているものが、真実すぐれた作品かどうか、果して本物かどうかは眉つばものである。現代ともなれば、広告代理店的手法によって仕掛けられるアートなるものが一世を風靡したりする。それらは流行もの廃(すた)りもののたぐいで、一過性のものがほとんどなのではないか。だからもし、大多数の個々がいいと思うものばかりを尺度とするならば、その尺度によっていかなる作品が選ばれるのか、いかなる状況が招来されるのか、結果は知れたものとなる。それは見物と作家の堕落、それも互いに迎合しながらのスパイラル的堕落に帰するように思われる。これは私たちの芸術文化というものを考えたとき、恐るべきことのように思われて来るのである。
ここにやはり私たちは、見物や読者といったマッスから独立した、真の批評者の存在を認めなければならないのではないか。芸術が神まねびの行為であるならば、作品がどこまで上手に、どこまで真に迫っているかといった真実性を見抜く。ある芸術が毒なり何かの批判を帯びるなら、これも真実性を包含する本物であるかどうかのジャッジを試みる。そして、それらが人間社会にとってどのようなためになるのか、どのような善美なるものをもたらすのかを遠望する。そのような生き生きとした感性とか、作家の真実性追求を理解し得る知性、善美なるものを遠くに見据える徳性をも兼ね備えた批評者の役どころは、芸術に限らずともやはり必須のもののように思われるのである。
また青くさい理想論のようなことになってしまった。写真の作は奥村博美によるものである。〝火焔器〟と銘打ってある。刻々の変成のなかのワンフェイズにあるような様子を見せながら、そのフォルムには、インテグリティー(統合性)といったものが新たに見られるように思う。数百片のうすい土片の蝟集(いしゅう)によって形を成している。器物の用も持たせてある。この人の造形の天分は非常に豊かなものがある。三十年来そう思っている。釉は鉄とスズと長石の合わせで、二度の強還元焼成を経て、これは赤銅と銀化と緑化の織りなす天目的景色となっている。筆者の眼にはこの作、ヒッグス粒子ではないが、重力素粒子のくびきから、今あたかも解き放たれようとしているかのような姿に見える。そして一瞬にして霧消しようとする直前の、その刹那の厳然たる有を呈示しているようだ。そこに永遠性を垣間見るの思いさえ抱かせるのである。
ひさびさの個展であります。何卒のご清賞ご批評を伏してお願い申上げます。
葎