朝の陽にきらきらする銀色の海を車窓に見ていた。地元の人たちが乗り降りするローカル線である。列車は長崎大浦湾に沿ってのどかに走る。幾重にも連なる入江の向うに、水平線が外海へと広がっている。かつてこの海を渡って、彼の地の陶人たちが日本にやって来た。列車のゆれに身をゆだねながら、眩く光るその彼方を、そしてはるけき時の彼方を私は想った。
秀吉による文禄慶長の役のおり、戦国武将たちは多くの朝鮮人陶工をともなって帰国する。おりしも茶の湯の隆盛は、秀吉利休という二大立役者によって絶頂期ともいえる時代に入っていた。茶入茶碗ひとつが一国一城に値するとされた時代である…。まこと人は時代の子である。歴史のゲバルト的奔流にあらがうことはほとんど不可能である。朝鮮人陶工たちの、故郷忘じがたくといった哀しみには痛切なものがあったであろう。しかし一方で、彼らは高度なテクノクラートとして遇されることもあったわけである。今日的史観で往時を処断するなかれということもいえようか。
当時のそんな陶工の一人に、朝鮮は熊川(こもがい)出身の巨関(こせき)という男がいた。平戸藩主の松浦鎮信(しずのぶ)が慶長の役のときに連れ帰った陶工である。巨関を筆頭に、一族郎党で百名をこえる渡海であったという。そのなかに、戦禍によって親なし子となった嬰(えい)という女の子がいた。巨関は残してはおけないと憐れに思ったのだろう。この少女が、この一家眷属の後日譚に重要な役回りを演ずることになる。
巨関は、平戸島中野に居を得て、当初は粉引や刷毛目の高麗茶碗などを焼いていた。その後二十年あまりを経たころ、次の藩主、松浦隆信により、白磁を焼くようにとの命がくだる。命を受け、巨関は息子の三之丞を連れて、良質の陶石を求めて領内の山々を経めぐり、築窯と試し焼きに没頭する。その間十年。ようやく針尾山三ヶ岳に白磁鉱(網代石)を発見している。父巨関の意志を継ぎ、このミッションを三川内(みかわち)焼として結実させるのは三之丞である。前述の嬰については、巨関が早くに妻を亡くしたために、三之丞の育ての母親となっていた。嬰は巨関の恩に報いる気持ちだったのだろう。このころ嬰も巨関に仕込まれ、女性ながらいっぱしの陶工となっていた。
三之丞の、白磁をわがものとするための遍歴はさらに続く。唐津の椎ノ峰窯(しいのみねよう)に辿り着き、そこで一年余を過ごしている。このとき嬰も三之丞に同行していた。当時の椎ノ峰には、熟練の朝鮮人陶工も多くいて、また京都などから流れてきた絵師など、多才な顔ぶれが集まっていたという。そのなかに五郎七という青磁白磁を能く知る、巧みな陶工がいた。その五郎七が、鍋島藩に請われ、椎ノ峰から南川原という地へ移ることとなった。三之丞は五郎七の弟子となって、付き従うことにした。初期の鍋島藩窯に当たると思うが、いわばエリート集団のなかで、三之丞の得るところは大であったろうと思われる。嬰のことは、椎ノ峰在の中里茂衛門(もえもん)という男に頼み残して、しばし親子の別れをしている。また三之丞はこのときに妻をめとっている。
数年の後、1643年、修業の遍歴を終えた三之丞は平戸三川内の地に、平戸藩官窯としての三河内皿山窯を創業する。椎ノ峰に残してきた嬰は、中里茂衛門の子(嬰と茂衛門の実子か?)を連れてこれより早く三川内に戻っており、三之丞を助け、三川内焼の創業に大きく貢献している。また皿山開窯を期に、三之丞は椎ノ峰から腕の良い陶工や絵師らを呼び寄せ、その数年後には平戸島中野に残っていた縁者たちも、三川内へ移住させたということである。離ればなれとなっていようと、このようなところに向うの人たちの血縁地縁の濃密さをうかがわせるものがある。
時移り1662年、三之丞遍歴のあいだ、巨関が手許に置いて養育していた三之丞の息子正名(まさな)が、天草陶石と網代石を合わせることで、より質の高い磁器焼成に成功。純白の肌に鮮明な青花の磁器を完成させ、公儀御用焼として褒賞を与えられるとともに、世に三川内焼を知らしめるものとしたのであった。
後に正名は法体となって如猿を名のり、三川内の陶祖神として祭られた。また高麗媼(こうらいばば)と尊称されるようになっていた嬰女も、没後150年忌に天神社の境内に〝釜山大明神〟として祭られている。七八歳で巨関に連れられて海を渡った嬰の、否、その一族郎党の切なる望郷の念が籠められた祭神名であったかもしれない。
以上は、渡来陶人たちの、白磁を追い求め、さまよい旅した流離譚と、ついに彼らが居場所を得るにいたるまでのいきさつである。今展の里見寿隆(としたか)と中里太陽は、ともに文章の中に登場する父祖たちの後裔(こうえい)に当たる。三川内焼のうちに、時を超えて今日まで伝えられているものとは、技術とか意匠だけではない。400余年前に海を渡ってきた異邦人、巨関と一族郎党を源流とする、いわば地下水のように流れ続けている物語なのである。-ギャラリー器館-
里見寿隆 Toshitaka SATOMI
(三代中里茂衛門三男が分家して里見姓となる)
1970 佐世保市三川内に生まれる
1993 京都教育大学卒業
1994 京都府陶工技術専門校卒業
清水焼窯元に修業
1998 平戸嘉久正窯八代目
中里太陽 Taiyo NAKAZATO
(中里嬰こと高麗媼を祖とする)
1977 佐世保市三川内に生まれる
1995 佐賀県立有田工業高校窯業科卒業
1997 共栄学園短期大学卒業
米国留学、オランダ陶磁研修留学
平戸洸祥団右衛門窯十八代目