二年ぶり、升たか二度目の個展である。これも鶴首待望の展であった。やっとやって下さるの感がある。近頃は年のせいか時間が神速に過ぎゆく。二年といえば長いか短いか、鬼の笑い声が最近とみにわが耳朶を打ってしかたがないのである。
作者より送られてきた写真の作、非常に細密な鉄絵の蓋器は、印を結び結跏した大日如来が、蓋の上と胴に配されてあって、これは真言密教の、いわば立体マンダラともいうべきものとなっている。沙羅の花だろうか、胴は花と枠のパターン文様がぐるりとめぐらされ、これを背景に、諸仏、諸菩薩、神将、悪鬼、白象に白馬、転法輪、如意宝珠といったものが、升独特の筆致でバックから浮き出てくるかのように描かれている。みっしり描かれていて余白は皆無である。まさに曼荼羅のうつわであり、一瞥、おのれのシャリを入れる蔵骨器にしたいと思わせられた。筆者の勝手な感じようだが、この蓋器の内部には、時間の概念を超えた無限の空間が広がっているかのようである。
升たかという人は、その来し方においていろいろと彷徨のあった人だが(前回展の作文をご参照賜りましたら幸甚です)、出自的には絵画の人であろうと思う(例えば青木繁大賞展で大賞を受賞していることなど)。筆者は、やきものに描かれる彼の絵描きとしての筆致とか筆運びとか、その一点一画に、つとに満腔の好意を寄せてきた。その絵画的世界は、なにか高風匂い立つような、スケールの大きなアマチュアリズムといったものが生き生きとしてあるように思う。そのような彼がリリジャスな主題を追求していきつつ、以って絵付けを施せば、余人には表現できない境域をものすることができるのではないか、と思わせるものがこの曼荼羅蓋器にはある。写真の作は精魂傾けての労作であったろう。かつ秀逸である。これからの升の新たな方向性と可能性を垣間見る思いがする。
ところで密教における曼荼羅とは、古代インドが起源で、それが中央アジア、中国、朝鮮、日本へと伝わったものである。密教にはヒンドゥーの影響がある。曼荼羅にもいろいろあるが、日本の密教では、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅がよく知られる。この二つの曼荼羅は一対をなすもので、胎蔵界が仏(大日如来)の大悲、金剛界が仏の智慧を表象するという。それにしてもこれらがなにを意味し表現しているのか。筆者はずっと宇宙とかコスモスといったものの、あるべきありようを示唆しているものと思っていたが、本当は〝自心の源底を表現〟したものであるらしい。内なる自己に覚醒すべしといった意味で、このあたり禅的、小乗的である。一方で、即身成仏といって、この世で生きたまま大日如来の救いに与るといった大乗的な面も見せる。そのための行法は、たとえば曼荼羅に対座し、口に真言陀羅尼を唱え、印を結び、心は三昧に入るべしというものである。顔を焼きながら護摩木を何日も焚くというのも密教のイメージである。密教は小乗的大乗的であり、秘儀を重んじる。経文も真言呪文を唱える。まあ密教は、弘法大師と同じくスケールがでかいのである。宗教でも哲学でも、その究竟というか最後のところは書くこともできず、言い表すこともできない不立文字の世界のことなのかもしれない。大師はそこのところを、ヴィジュアルな曼荼羅や秘密の行法で感得させるようにもっていき、なんとかわからせようとしたのかもしれない…。またかいつまんでしまったが、見当違いあらばご叱正を乞う。
升たかの色絵の世界は、いわゆるシルクロード、セラミックロードといった、古の歴史的文化的ストリームを自由に遊弋するものである。それは東西の混淆地であるオリエントの世界も含めた、ある種、密教的な大アジアのスケールを見せている。やきもの屋的な絵付けの世界のレンジに比して別格に広いのである。広いということはボーダレスで自由なのである。エキゾチシズムは溢れんばかりである。それを五彩以上の色彩でもってカラフルに展開する。ほとんどの呈色は、釉下彩で実現している。いわば永遠に色褪せぬ下絵五彩ともいうべきものである。さて今展では如何なモチーフたちでそれが展開されるのか、とても楽しみである。
升さん、消耗されておられるでしょうが大変ご苦労様です。副題を、-The Long and Great Asian Road-としましたのは、貴方の作品世界を思ってのことでありました。今展も楽しみにしておられる方々がいらっしゃいます。よろしくお願い申上げます。-葎-
升たか展Taka MASU
The Long and Great Asian Road
11/5 Sat. 〜 27 Sun. 2016