筆者は長年もの作る人を見てきた。そして多くの人たちと接してきた。縁の続く人もいれば、遠のく人もいる。人間関係であるから、縁というものは近づいたり遠くなったり、切れたりまた結ばれたりするものなのだろう。これには互いの相性ということもある。縁遠くなった人のことを思い起こせば、なぜあのときと、こちらの不徳と狭量を悔んだりすることもある。しかしお互いさまということがあるかもしれない。結局は来者不拒、去者不追の心持ちでいられれば、なかなかむずかしいが、それが一番いいのではないかと思われる。
しかし芸術の人というのは、非常に悩ましい人たちのことなのではないか。創作にかかわる行為をおのれに課す人たちだからである。芸術は無から有を生み出す行為であると言われたりする。しかし神様でもあるまいし、なにもない虚空に忽然と有をぶら下げて見せることなど人間ワザを超えることである。ここで筆者は神という形而上の言葉しか思い浮かばないのだが、その神の世界創造に比べれば、人間の創作行為など、断片的な片々たる神まねびをやっているに過ぎないのではないかと思われる。また天(あめ)が下に新しきものなしという。そういう意味でも、人は、何かに何かを付け加えることくらいしか出来ないのではないか。しかしながら、この神まねびも付け加えも、芸術においてこれをなすことは至難のワザなのである。至難というより、めったに誰でも出来るものではないのである。きわめて少数の芸術的天才やこれに準ずる人たちが、そのモニュマン的作品とともに時代を越えて存在しつづける所以(ゆえん)がそこにある。
またご大層にならないうちに話を卑近なところに戻せば、筆者のまわりでも、ものを生(な)すことの悩ましさに深く入り込んでしまう人を、折々に結構見てきたように思う。汲めども尽きせぬ創作の井戸でもあればいいのだが、そうも行かず、この手の井戸はしょっちゅう涸れる井戸なのである。そんなとき、真摯な人なら朝夕に井戸をのぞき込み、長嘆息をもらすことだろう。そしてあがきもがくということになる。そんな状況が長く続くと、精神の平衡を保つこともむずかしくなるのではないか。それが身体にも影響を及ぼしてくる…。
筆者はそのような状態にある人と、アドバイスとか忠告といった偉そうなことではなく、何度か話し込んだことがある。人によって話したこともいろいろであったろうし、いちいち覚えてもいないが、まあその人を一生懸命に励ますわけである。例えば…芸術の人は処女作や一度経験したピークを一生超えられないこともあるとか、そんなに次から次へと新手(あらて)が出てくるわけがないとか、一つことであっても洗練に洗練を加えていく道もあるとか、そこからまた新たな想起やインスピレーションが得られるかもしれないとか、閉じられた世界に引きこもるのはいけないとか、そして古今東西、世界は広い、アンテナを伸ばしてパクリまくったらどうかとか、まあいろんなことを、リラックスしてもらおうと憚りながらしゃべるわけである。そして、続けて行ってほしいと言うのである。継続が肝要なのである。才あり悩み深き人ほど、いいものを生み出すのだと思う。またそういう人ほど絶望するということもある。ひょいと人生の扉から、その扉は開いているのか閉まっているのか知らないが、出て往ってしまう人もいるから油断ならない。惜しい話である。筆者は、たとえいま眼前が真っ暗であっても、なにものか美しいもの善きものを生さんとするのなら、人生の長きにわたって継続的に、創作の歓びと幸福を追い求めるべきであると思う。それが成功しようが失敗に終わろうともである。言いたくないが、成功のおぼつかないのが芸術の世界であろう。見渡せば一握りの成功者以外は、死屍累々たる光景なのではないか。いやしかし、一人の才能ある芸術の人の人生が生涯ままならぬものであったとしても、ギブアップしなかったのなら、筆者はその人に満腔(まんこう)の敬意とシンパシーを送りたく思う。なぜならばその人は恵まれずとも、貴い価値に一歩でも近づこうとした人だからである。
新宮さやかも4回目の個展となる。筆者は彼女のなかに、最も必要な継続の力を見る。それはこれからも衰えることがないように思われる。彼女の作品は、ゆるやかだが移動と変化を見せている。彼女は自分の心魂奥深くに眠る美しく永遠なるものを想起しようとしているように見える。それは作品と自分にいまだ不足している、なにか高きものを希求するといった姿勢であろう。そのような彼女と作品に大方のエールを賜らんことを願い云爾(しかいう)。葎
新宮さやか展Sayaka SHINGU
Longing for Something Far Away
11/11 Sat. 〜 26 Sun. 2017