写真の池田省吾のオリベの茶碗、これは、織部にもいろいろあって、桃山期の鳴海(なるみ)織部と呼ばれるものといえるだろう。鳴海織部は、織部のなかでもとくに奇抜で、はじけるような自由を謳歌している。これもそのエスプリを体現しながら、まさに池田オリベともいえる自由な境域に遊び得ていると思う。第一級のクラシックに対して、池田の翻案、付け加えが成功しているのである。
外から内へ、内から外へ、ひとつなぎに走る黒の帯が、絵変りの窓絵を抜きながら、全体を区画しつつ引き締めている。黒の多用が効いている。その黒、白、緑、赤(土の)が一器のうちに入っていて、鳴海手はとても華やかである。そしてゴツゴツとした茶碗全体に、池田一流の絵心が全開で、もう満艦飾である。しかし決してうるさくはない。見込をのぞけば、山水の遠景があり、見込底には一面に濃緑の織部釉がたまり、サカナと思しき抽象文様がレリーフで浮き立たせてある。茶碗は見込で決まるともいうが、これの見込も奥深くパースペクティブで、無辺の趣きがある。視覚に訴えてダイレクトに力ずくでそう思わせられる。彼の大胆かつ心にくいデザインと、画のうまさに依るところが大であろう。
しかしとにかく彼は画がうまい。この茶碗は鳴海手ということだろうが(鳴海手の茶碗などは、白と赤の別種の土を上下二分割に継ぎ合わせて成形してある。これもそうしてあるかどうか、外観上はちょっとわからないが)、それはさておき、これはロクロ的フォルムというよりは、手づくねのような感じで凸凹と作ってある。そこにあたかも荒れ地に直線を引くように、極細の線描が、苦もなくなめらかに走っている。描きにくいだろう、引きにくいであろう見込の線描や文様も、外と同じ筆致を見せている…。
要するにこの作は、褒めものなのである。秀逸である。案内状用にと思って、とくに選んでくれたのかもしれない。荷を解いたときの、当方の嬉しさは格別なものだった。やはりと彼を見直すとともに、と同時にまたもや見物の残酷さが頭をもたげてくるのである。この調子だとこれに匹敵するものが複数やって来るのではないかと。池田にすれば勝手に思っておけといったところだろうが、だから勝手に期待させてもらう。彼の作るものがそう思わせるのだから仕方がないのである。さぞ有難迷惑であろう。しかしながら、優れた作家ほどプレッシャーとストレスを原動力とするのではないか。それはなにかといえば、見物を意識する作り手自身の意識と、見物が意識する作り手に向けられる期待と、それと、〆切である。もの作る人の〆切には、世の常の人とちがってとくにつらいものがあろうと思う。それは生みの苦しみにも似たものであろう。しかし思えば人生は〆切の連続なのではないか。快苦はあざなえる縄のように、あるいは寄せ来る波のようにやって来るのである。ものを生(な)すことにはまず苦しみが伴うのである。その後にほとんど必ず歓喜がやって来るのではないか。そこが観念のしどころだろうと思うのである。-葎-
池田省吾展Shogo IKEDA
Getting Along With The Soul
12/2 Sat. 〜 24 Sun. 2017