個人的なことで憚るが、筆者は生来胃弱ということもあって、ひと月かふた月に一回医者に行く。血液検査などをしてもらい、血圧だのコレステロールだのと言われたりして薬を処方してもらう。それを不承不承呑んでいる。高をくくったような不節制を続けているからこういう仕儀となるのである。行けばたいがい待合はお年寄りでにぎやかである。傍観者の目で見ていると、あの人たちはいっぱい薬をもらって帰って行く。スーパーかコンビニで買い物でもするかのように、袋に薬をどっさり提げて帰って行く。うしろ姿を見送れば、半分この世の人でないように見えてきて、なんだかあやしい気分になってくる。
近頃とみに身近な人が去ってゆく。やっぱり人は死ぬのである。その度に筆者は寝ていたのを急にたたき起こされたような気持ちになる。自分は生のこちら側にいて、日々の算段に追われ死のことなど思っていないからである。いや筆者とてたまには死を思う。しかしやっぱり人は、死というその事実を直視することを嫌うのではないか。私たちはそこから目をそらそうとして、あるいはむしろ全てのことをしているのではないかと疑われる。私たちは死にたくはなく、生きてこの世での幸福を願うのである。そういった生の連続のなかで、冷や水を浴びせ掛けられるようにして、自分の身近に死を見ることがあるのである。
なんだか真剣な話になってきて再び憚るが、人の死に様は、その人の生き方に由来するものなのだろう。死ぬまでの、生きている間の、育ちや環境、その立ち居振る舞いとかによって、その人の死のかたちはある程度決定づけられるのだと思う。直接間接に知る人の死に接して、さもありなん、案の定といった思いを抱くことがある。あの人の人生は幸福だったのではないかとか、あの人はきっと恨みを呑んで死んだのだろうなあとか、生きている者の勝手で思ったりする。人の死のかたちというものは千差万別なのである。そこには自殺という死に方ももちろん入ってくる。そして自殺という死のかたちも千差万別なのである。自殺は究極の私事に属する行為と思われるからである。
それにつけても思い出されるのは、三島由紀夫のあの割腹自決である。世間に衝撃を与えた。自殺は全き私事であるが、ときに公的な影響を及ぼすことがある一例だろう。しかしあの自殺は一体なんだったのか。自衛隊員を集め、バルコニーの上から檄を飛ばす。決起せよと。それならクーデターである。しかしそんなん無理やろと、高校生だった筆者でも思った。もし万に一つクーデターが成ったとしても、三島は無力だったろうと思う。無責任にもその後のことはあと白波で、わしゃ知らんといった落ちしかなかったのではないか。事のあとさきの覚悟も考えもなかっただろうと思う。革命成った暁には、有能なリアリストの政治家が必要である。その後の長期の困難に堪えるためには、美しい青春の死よりも、むしろ醜い老年にも堪えるだけの知恵をもたなければならないのではないか。三島は、あまりに文学的な、妄想に満ちたエゴイズムに溺れながら、自分だけエロースに殉じたかっただけなのだと思われる。一場の戯曲だったのである。クーデターなどといきり立っても、自分が死ぬことに執着するばっかりで、殺す決心も覚悟も皆無だったように思われる。
三島との距離はあまりに遠いのでさて措き、もっとぐっと近い距離で、身近な人にサヨナラされる経験をすることがある。筆者の場合、作家の人もいたし、友人とかその他の人間関係のなかにもやる人がいた。それをやられたときのこちらの気持ちといえば、いきなりすかされたような、置いてけぼりをくらわされたような、宴たけなわでなんの挨拶もなくふいっといなくなられたような、そんな気持ちになる。落胆と喪失感が強く残って結構こたえる。どうせ人生アッという間なのに、そのアッという間くらい一緒にこの世にとどまっていろよと腹立たしさも覚える。他方、最後の短い時間のうちには精神錯乱とか狂気めいたものが入り込むのかもしれないが、死ぬの大好きみたいに、大またぎで向うへ行ってしまう思い切りのよさに羨望を感じ、負けたというような気持ちにもさせられてしまうのである。彼ら彼女らの行為は、絶対不可避である死という現実を、自分の意志で軌道修正というか、コントロールしようとするものであり、人生を、終末というよりも完結というかたちで生と死に一刀両断するものである。それを可能にする唯一の手段が自殺というものなのだろう。いわば私たちにとって如何ともしがたい未来を先取りする行為ともいえるのだろう。
筆者とておのれの卑小さを思うとき、自分がいやになったり、なにか生命以上の価値のことを考えたり憧れたりする。そこに誘惑的な死の匂いを感じることもある。しかしやはり死を怖れる。この世にまだ未練がある。釈尊は、この世を穢土というか苦界とみなした人だが、最後の死出の旅の途上で、この世界は、見渡せば甘美であると言ったと伝えられる。濁世にも善美なるものを認め肯定しているのである。たしかにそうだと思いたい。いつも最後に牽強付会となるが、生きていれば、美酒に酔いしれ陶然たる境地に遊ぶこともできる。そんなとき、この世の甘美なる景色がまたたき見えることだってあるのではないか。それも棄てがたく思うのである。-葎-
●出展作家(五十音順)
浅野哲
池田省吾
岩永浩
植葉香澄
内田鋼一
種田真紀
大石早矢香
大江志織
大上伊代
岡安真美
奥島圭二 (glass)
隠﨑隆一
加藤委
兼田昌尚
鎌田幸二
鴨頭みどり
川上清美
川端健太郎
鯉江良二 (glass)
新宮さやか
高柳むつみ
田久保静香
田嶋悦子
丹羽シゲユキ
富田啓之
長岡千陽
楢木野淑子
野村直城
原憲司
福本双紅
堀口彩花
前田昭博
松本ヒデオ
三原研
和田的
佐加豆岐の展パートⅧ
出展三十五名による酒盃展
3/3 Sat. 〜 25 Sun. 2018