今年の一月下旬、気仙沼に行ってきた。あの未曾有の大災厄から三月十一日でまる七年を閲(けみ)するわけで、仏式でいえば七回忌に当たる。彼の地に当方と縁あるご夫婦がいらっしゃってお邪魔をすることにしたのである。ご主人は気仙沼の網元のような人で、船もお持ちで、水産業を手広く営んでおられる。「常夜灯ができたから見に来てよ。遊びにいらっしゃい」というお誘いだった。その常夜灯は、海に持っていかれた人たちの供養にとご主人が建てたもので、それに灯が入ったのである。旧市街から車で十五分くらいの、とある岬の突端に建てられていた。岬は海から切り立っている。海からの高低は、ゆうに二〇メートル近くはあるように見える。あの日、大津波はそれを越えて人を呑み込んだのである。海から高いので、ここならばと思ったことだろう。二十人ほどの人たちが難をのがれようと来ていたらしい。想像を絶したことだったろう。今も海側にめぐらされた頑丈そうな鉄柵がひん曲がり傾いている。容赦のない自然の力を想像して慄然とさせられた。
その常夜灯のなかには小さな阿弥陀像がおさめられていると聞いて、筆者は分もわきまえず張り切ってしまって、それなら阿弥陀さんと亡くなった人たちのために献茶を奉じたいと申し出た、というより口走ってしまった。あとでしもたと思った。神仏や霊前に奉る献茶は、作法や次第なども格別のものではないかと思い至ったからである。自業自得一人で困っていたところ、大徳寺のとある仏弟子に「献茶には坊さんがつきものやぞ」と言われ、はっと思って、「そんなら頼んでもええか」「ええわ、わかった。一緒に旅しよう」という流れとなり、これはまことに有難く、狼狽から一転、心丈夫にさせてもらったのである。
別室の茶室で、粗にして略だらけの点前で天目に濃茶を点て、海に向って窓が開け放たれた祭壇に一服献じた。その日は雪まじりの風の吹く日だった。和尚の回向、読経が始まった。経文はよくアレンジされ練られた上等の誂えもので、この場のみならず、すべての霊に回向するものだった。音吐朗々、腹の底からの和尚の読経が風をついて海へと響き渡る。そこへどこから来たのか、呼ばれたように崖っぷちのあたりにカモシカが二頭現れた。ふさふさとした毛に覆われていて美しい。なんでこんな崖っぷちに現れるのかと怪訝に思っていたら、そのうちの一頭が和尚に正対してピタッと立ち止まった。三十メートルほどの距離だったろうか。じいっと和尚の顔を見つめて、目と目が合っている。和尚の読経は続いている。カモシカはすぐに立ち去るだろうと思ったが、和尚の声明(しょうみょう)を全身に浴びるかのようにずっとそこに立っていた。その場にいた十人ほどのみなは息を呑んだはずである。涙を流している人がいた。ちょっと背筋がゾクッとなったが、あれは化身し成り代わって現れたのである。この一個の生きものは、人外の、汚れのない、執著も罪も持たない存在である。それが無限多の偶然の間隙(かんげき)を縫うようにして、私たちの眼前に現れ、仏弟子の真正面に立ったと、そう思えるのである。そう思えばこの日の集まりの意味のすべてが、あのカモシカに投影されていたように思われてならないのである。
この土地には、身体の一部をもぎ取られたような喪失感に苦しんだり、あるいはあのときああすればよかったとか、そのような悔恨の情に苛まれ、いまだ立ち直れずに夢のなかにいるような気持ちでいる人がたくさんおられると思う。その夢まぼろしのなかで、にわかに向うへ逝った人の面影を追い続けているのかもしれない。しかしあの出来事は仕方がなかったのである。どうしようもなかったのである。〝夢の世は 夢もうつつも夢なれば 醒めなば夢もうつつとぞ知れ〟という歌には、昔の人の知恵がよく言い表されているように思う。人生一炊の夢ということか。あるいは、私たち人間の既存的なあり方が、根本において、はかないものであることを言おうとしているようにも思われるのである。
一方、リアリティーにおいては、この土地は、徹底的な破壊からの建設途上にあるように見える。それは人間の文明の営為が再び行われている光景である。政治の助けもあるだろうが、多くの人たちの献身と努力が今も払われているのである。件(くだん)のご主人も、人のためあるいは自身のため、生業の立て直しに身のほそるような努力をされてきたことだろうと思う。そのような、疲労と消耗に耐えながらも絶えず努力している、この地の多くの善良な人たちの立場を、私たちはこれからも長く支持していかなければならないと思う。
また作家そっちのけの消息文になってしまったが、写真の作品がもし早くにあったなら、迷わず気仙沼に送っただろう。蓋器なので焼香できる。祭壇にこれを置けば作品がものいって、あの場の空気はさらに荘厳されたのではないかと思われる。升たかさん、どうか悪しからず…。-葎-
升たか展Taka MASU
His Far Away Eyes
4/7 Sat. 〜 22 Sun. 2018