掲載の写真は、中村譲司(ジョージ)のティーポットを撮影したものである。いい写真だと思う。写真家の着想とデザインとが相まって成功していると思う。被写体と写真家がうまくかみ合った幸福な一葉となっている。四点撮りしているが、散漫になることなく、一つの枠のなかでの、全体的統一性といったものを感じさせる。もちろん前提にものありきである。写っている中村の作品それぞれが、完成度高く成立しており、茶注としての機能と美の合一が、見事にはかられているからでもある。真に迫った上等の静物画を見る思いがする。
中村譲司は当年三十七才、今回が弊館での初個展である。彼のことは学生時代から見知っている。当初からとにかくうまい、達者だなという印象があり、料理屋の数ものの注文なども彼に任せたりしてきた(これの出来る人は意外と見つからない)。若年ながらそれに立派に応えてくれるのである。彼の陶芸は、職として成り立っている。やきもので衣食できている(のではないか)。そういった自負のようなものが彼の容貌にも見て取れる。それは腕に覚えの、技術の裏打ちがあるということでもあるのだろう。
陶芸ほど、さまざまな場面やプロセスで、いろいろ異なった技術を要求されるジャンルはないように思う。陶芸は、結果予測において曖昧性が残るきらいがあるが、その曖昧性のゆえに、それをも織り込み済みの技術が必要になってくる。それは経験とも知識とも言われるものでもある。陶芸は、経験と知識からなる技術なしでは成り立ち得ないのである。
しかし技術とはなんぞやということに思いをいたすと、問題はこみ入ってくるのではないか。技術といえば、科学技術がまっ先に思い浮かぶが、これの専門化と進歩は加速度を増してとどまるところを知らないようである。しかしながら、科学技術の各分野の研究開発といったものは、隣の人は何する人ぞといった体(てい)で、たがいに孤立ばかり深めていて、それぞれが結局なんの役に立つのか、どのようにその成果は使用され得るのか、本当に私たちのためになるようなものとして進行しているのか、研究されているのか、非常に怪しいように思われる。遺伝子とか細胞を操作しようとするというような研究も、あれは一体なんのためにやっているのだろうか。とっても便利なスマートフォン(スマートは賢いという意味)というのがあるが、どんどん利口になるのはあのぺたこい長方形の機器ばかりで、使う側の阿呆の進捗具合はもう御し難くなってきているのではないか。これに耽り、いたずらにタップして、おのれの利益のために、あるいはおのれの寂しさをまぎらわすために、むやみに外部に発信し、自他ともにトラブルに巻き込まれたり、軋轢を経験したりしている。そしてあれに没頭させられている人は、結局は他者との冷たい疎外感を覚え、虚しさのなかで不毛な孤独をかこつことになるのである。技術は使用されてはじめて生きるのだろうが、そのときさまざまな善悪の様相も顕(あら)わになってくるのである。
陶芸にまつわる諸技術は、人々の役に立つようなもの、あるいは善美なるものを生み出さんとするために使用されるものである。目的が善の方向を向いてはっきりしているのである。そしてそれらの技術は一人の作者によって総合的に駆使される。木・火・土・金・水を五行というのか、これら万物組成のエレメンツに、ときに親しみ、ときに抵抗を受けながら作品をものしていく。そのとき作者は自然と深く関係しているのである。そこに人間の疎外はない。そしてその技術は、時間とともに深められ、洗練され、進歩していくのだろう。あくまで人の心を動かすような善きものを生さんがためにである。
今展の中村譲司の薬籠中にある技術もまさにそのためのものであろう。筆者は、彼の技術に切れ味するどい、カティングエッジなものを感じる。それは彼の作品を手に取れば、どなたもおわかりいただけるように思う。また彼の作るものは首尾上々というか、一から十まで細かい神経が行き届いたような出来映えを見せている。ディテールに心魂を込めているように思われる。さらに言えば、彼のものはクールである。かっこいいと思う。クールというのは抽象的だが、まあいかすというか素敵というか、ソフィスティケイトされた風情というべきか。これも彼の高度な技術がもたらすものなのかもしれない。しかしながら、そのあたりのいわく言い難い微妙なところは、どうしても技術化できない境域でもある。Beyond Something Skillful…。中村譲司はそこのところも表現できる人と見たい。 -葎-
中村譲司展George NAKAMURA
Beyond Something Skillful
6/30 Sat. 〜 7/15 Sun. 2018