山田晶の展も今回で九回目となる。初回は1999年だったから、早二十年になんなんとする訳である。二十年といえばふた昔である。この長きにわたる彼との関係、作家と売る側ということでいえば結構めずらしいことなのではないかと思う。これだけ続いたのは、彼の厚誼あってのことはもちろんだが、やはり彼の作るものに、そして人となりといったものも含めて、当方の関心と期待がとぎれることがなかったからだと思われる。もっともときには見物側の残酷な眼差しで彼の作品を眺めることもあった。そこになにか不足を感じるからだろう。本人だって感じているのかもしれない不足のことである。しかしそれはいわく言い難いものである。その不足は永遠に満たすことのできない不足なのかもしれない。しかしこのようなある種のフラストレーションは、期待の裏返しなのである。山田晶という作り手が到達すべき、あるいは到達可能な、いわばイデア的なところを同床異夢で夢見るからなのか。作家なら命を削ってでもそこに肉薄してみたらどうだと、これまた期待の裏返しだが、残酷な思いを抱かせられるのである。
筆者は過去の作文を読み返してみると自分でも笑ってしまう。なあんだ同じことをいっているではないかと。これでは寄せ来る波のようなものである。しかし本当に言いたいことなど、指折り数えるほどしかないのがわかる。そんなにありはしないのである。以下は過去に書いた山田晶へのエールの一文である。落語でも毎度おなじみのという前触れで許されるように、多少の削ぎ落としをほどこして、再び彼に送りたいと思う…。
…歎異抄の中で唯円は、師匠の親鸞におのれの信仰の疑念をぶつけている。念仏しても自分は全然ダメだというのである。歓喜もなく安心立命できないと。その疑念は信仰を深めるほどに段々大きくなっていくようなものだったのではないか。それは誰にも言えないひそかな悩みであったろうと思う。これに対し親鸞は、意表をつくように、自分にもその不審があったが、お前もそうだったのかという。さらにそのような疑念が湧いてくるのは、自分もお前もそうだが、おのれの煩悩のどうしようもなさから来るものであって、まさにそういう者たちを救うためにこそ弥陀の本願は立てられたのであるから、「いよいよ大悲大願はたのもしく、往生決定だ」と思えと諭している。なんだか詭弁のようだが、これで親鸞と唯円の間では電光のように通じたのだろう。すでに同じ信仰に生きているからだ。
この時の師としての親鸞の態度と応答は立派だと思う。互いの人格を愛し切磋琢磨し、励まし合い、教え教わるといった師弟関係は、今はもう見られなくなっている。そのような「善き人」との人間関係は、もうほとんど絶無なのではないか。そして私たちは、弥陀の大悲大願のことを聞かされても、もはや感銘することはないだろう。あるいは来世はあるのだとか、あるいは来世などはなく、死後の悩みの心配もないとかいわれても、驚いたり安心したりもしないだろう。私たちは死を忘れ、死に無関心なのである。宗教が衰微するのもむべなるかなである。しかしながら、宗教が未来を来世としてとらえ、かつこれを死に即して考えていることには、絶対的な意味があるのではないか。一方私たちは、未来は来世などにあるのではなく、現在の歴史の延長線上にあるかのように思っている。そして救いは歴史上のいつかどこかで、科学技術の進歩とか福祉国家の完成とか、なにかそのようなものが完成されることによって成就されると信じている。いや信じようとしている。これも一種の現代の他力信仰のようなものかもしれない。しかし未来などというものは、私たちがハンドルできるものではないのである。この種の現代人の信仰も、根底からゆさぶられるようなことになってきているのではないか。
筆者は現代という時代に生きながら、親鸞や唯円が経験したような救いや確信がうらやましく思う。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなり…」。親鸞が体験したこのような救いが、もう一度現代の私たちのために体験されるのでなければ、宗教はもはや意味をなさなくなるのではないか。現代の宗教者が、内輪の、旧弊な、自分たちだけの言葉で語っても衆生の耳にはちっとも届かないのである。まずは若い宗教者が真摯な不審を「善き人」と一緒に考えるということが必要なのではないか。おそらく歴史主義を脱すること、歴史主義への批判が、新たな宗教への突破口になるのではないかと思われるのである。
山田のキャリアもすでに相当長い。その間、唯円ではないが、彼も制作の悩みや困難、自分自身に対する不審も経験してきたことだろうと思う。芸術の人の悩みや不安は深いものがある。しかしそんなことは見物の知ったことではない。彼の営為には継続ということが第一に求められるのである。変化や向上も当然のように求められるのである。ものを作るという営為は、信心と同じく、一時のことではなくて常時のことであらねばならないと思う。そのなかで大小の波瀾がありうるだろう。いやありうべしである。波瀾によって、心がもう一度初心にかえり、これを強めるということがある。忘れがちの初心を取りもどし、もう一度再生するのである。唯円の体験がそうであったろうと思う。山田の作るものはすでに美しい姿、上品の風情、得がたい色目を示して出色である。これのさらなる継続と変化と向上を期待させていただきたい。波瀾のたびに、何度でも初心発心を奮い起こしていただきたく思うのである。なにか説教じみてきたが、決して上からいうのではない。勝手乍ら一人の友のような者として励ましたくていうのである。-葎-
山田晶展Akira YAMADA
On the way no turning back
7/21 Sat. 〜 8/5 Sun. 2018