内田鋼一は忙中の忙の人である。ウナギの如くなかなかつかまらない。さて連絡をつけたいときなどはやきもきさせられる。デッドラインが目前のときはなおさらで、こっちがキレそうになったりする。彼のことを見ていると、とにかくやけくそみたいに忙しそうなのである。それだけお呼びが掛かるということだろうが、あれで持つのかと案じられる。収拾がつくのかと心配させられる。しかしながら、彼にかぎってこれまで約束手形の不渡りを食らったことはない。言あらば〆切ギリギリであっても、かならず手形は落とす男なのである(もちろん金の話ではない)。それにしてもなんであんなに仕事を受けるのだろう。自らも仕事を作り出しおのれに負荷をかける。見ようによっては生き急いでいるようにも見受けられるのである。あの日常は余人には真似できない。
以前にも引用した文章だが、八木一夫は三人称を用いながら自分のことを次のように言っている…。
「新たな自分を触知することなしに創造はあり得ない。あらゆる分野においても創造者を見ていると、まるで狩人のような気配が感じられる。彼らは常に何らかとの出くわしを積極的に待ち受けているのだ。その出くわした事物との摩擦によって屈折した新しい波を、絶えず彼自身の内部に発見しようとしているのである。彼らの生態は、いってみれば、周囲のことごとくが秘境といえるのではあるまいか。出くわし、発見し、そして創造と、精力的な自らの屈折のさせかたは、決して並の日常性から生じるというものではない」…。
これは八木の告白のようなものだとも思われる。こういう生き方は、天才があって座しているだけといったものではなく、その天才を引っ提げて奔命渉猟するといった生き方であって、天才あるがゆえに身を削るような生き方であると思う。ある種の天才に宿命づけられた生き方であるようにも思われる。縁起でもないことをいうようだが、この種の稀人(まれびと)たちは大体において短命である。しんどい人生なのである。
内田を天才と言っていいのかどうかわからないが、彼の並はずれた日常性は、八木のそれと一脈通じるものがあるように思われる。それは自分の立ち位置というか現在地点に、つねに居心地の悪さ、違和感を覚えてしまうといった日常だと思う。ひと処に安住していられないのである。しかしながら芸術の人とは、その違和なるものに引っ張られ、触発され、表現しようとする人種のことをいうのではないか。違和なるもの、いわば普通の人には聞き分けることのできない不協和音のようなものに、狩人の如くするどく感応して、あちこちと自身に移動を強いながら表現しようとするわけである。
内田は、必要とあらばいかなる異素材にも触手をのばし取り込む。もちろんやきものを中核に据えているのだろうが、彼の制作はそこから同心円状にどんどん広がってゆく。そこいらの陶芸家ならすぐに破綻をきたすところである。やきものに限ってもあらゆるカテゴリーを渉猟する。それはつまみ食いといったものではなく、また小器用にこなすレベルでもなく、彼が手を出せば、ほとんどすべてが心にくいほどに次々と作品として成立してゆく。内田の創作者としての総合性、統一性が躍如としているのである。
結局、内田は自らの位置をつねにずらし続けていないと落ち着かない人なのかもしれない。それは創作の人にありがちな傾向というか性(さが)なのかもしれない。つねにもがきあがくわけである。もがきあがいて、はるか果てに望むカタルシス(浄化)を乞い求めてのことだろうか。しかしそのカタルシスへの道程には剣呑なものがあるのではないか。
なんだか八木のイメージが内田に重なってしまう。作家を創造へと駆り立てるそのモメンタムにおいてである。そのスタイルにおいてである。まあ彼の流儀はこれからも変わることはないのだろう。そしてその日常はタフなものであろう。しかし一見物人の勝手なもの言いを寛容してもらえるなら、内田さん、御身のためにもその突っ走りのスピードをもう少しゆるめてほしいと思います。-葎-
内田鋼一展Koichi UCHIDA
Far Away "Katharsis"
9/22 Sat. 〜 10/14 Sun. 2018