作品は人ナリというが、たしかにそうで、作品を見てその人に会うと、いい意味でもまた違う意味でも案の定といった思いをすることが多い。しかし作品が、その人の日常もひっくるめた全体であるのかどうか、すべてであるのかといえば、そうともいえない。芸術の人がすぐれた抽象をなし、真に迫った作品をものしようとしているとき、その人のパトスは最高潮に達する。やっと捉えたこの感じ、インスピレーション、あるいは心魂奥深くに眠っていたものをふっと想起できたとき、作者はそれを逃すまいと、制作へ自身を駆り立てる。そして所期のものを作品に結実させ、完成できたとき、そのとき、成った作品がすべてであり、作者はすべてをしぼり取られた残りカスのような人となって、しばし呆然たる体で立ちつくすのではないか。しばらくは腑抜けのような状態になってしまうのではないか。これは本当に私の作ったものなのかと…。すなわちここでは作品と人とが、作品は人ナリとはいえないようなことになっているのである。ある種の神がかり的世界に遊んだ自分がいて、正気というか日常の世界に帰ってきた別の自分がいるように。
筆者ごときの者でも、たとえばこの消息文を書いていて、調子が乗ってきたときなど、なにかおのれ自身が書いているのではないような、なにかに書かされているような感覚におちいることがある。善美なるものとか、ご大層でご立派なことを書いてしまっている。書いたあとでそうと気付く。どうしようかとも思うが、〆切があるので仕方なく刷りに回す破目となるのである。書いたものと、おのれとのギャップに困惑し、恐れるのである。忸怩(じくじ)たる思いにとらわれるのである。書いていたときの自分がすべてであり、書き終われば、ここにいる自分はカスであって元の木阿弥のくだらない自分がいるのである。つかぬことをいうが、あの朝日新聞の天声人語というコラムは、天の声を人(朝日)が語ろうというのか、ずいぶんえらそうである。昔よく読んだが(大学入試にも使われていた)、今思えば、あれはしきりに道徳修身を説き垂れていていた。今もそうである。他が説く修身には難癖つけるが自分は別だと、修身嫌いの朝日が修身の権化を気取っている。実は修身大好きなのである。しかしそれは、決して自分で守りもしなければ、実践するつもりもない修身である。ここに筆者は、あのコラムの書き手と共通するいやなものを感じてしまう。気休めは、当方のこれはそもそも売文ではないし、彼らはきっと忸怩たる思いなど抱かないと思うし、それにあれほどの偽善には負けるし、といったところであろうか。
話がまたあらぬほうへいってしまったが、芸術の人はいってみれば、神的なものと、人々とのあいだを取り次ぐメディアムのような存在なのかもしれない。そういった取り次ぎの出来る人は少数である。そして神的なものにあずかるためには、そこに狂気の介在があらねばならないのではないか。ある種の狂気なしに、芸術の人が創作の門に至ることはできないのではないか。さもなくば自身作家として不完全であることになり、その創作は、狂気の、言いかえれば神がかり的状況をくぐり抜けてきた創作によって、掻き消されてしまうのだろう。芸術が神まねび、神のワザのミーメーシスといわれる所以(ゆえん)もそこにあるように思われる。
三原が住まうのは神々の集まるところ出雲である。二十年ほど前、彼はこのような文を寄せてくれている。美しい魚と題してあった。いまも新鮮なので再録すれば…
「絶対的美の方程式をかすめたような気がした。次の瞬間には崩れ、途方もなく遠い所にいる様な気がする。また別の方法で一から組立ててゆく。漠然としたモノを、周りから魚の様に追い込んでゆく。ところがこの魚には、羽が生え、立体的な動きをする様だ。なかなかに正体を現さず、またも僕の横をすり抜けてゆく」。
芸術の人の真摯で切実な渇望が読み取れる。神無月には八百万の神々が出雲に集まりなにやら密談するという。三原は、世の常の人には聞こえない、神々が交わすかすかな、はるけきかなたの声を聞こうとする。もしその声が彼の耳朶を打ったなら、そのとき彼の心魂に芸術の人の狂気が宿りはじめるのかもしれない。-葎-
三原研展Ken MIHARA
Muse and Artists
11/17 Sat. 〜 12/9 Sun. 2018