Group Show by 28 Artists “YOU-WAN the 13th”
●出展作家(敬称略、五十音順)
池田省吾
石山哲也
市野雅彦
植葉香澄
内田鋼一
種田真紀
大江志織
大西雅文
隠崎隆一
梶原靖元
加藤委
川端健太郎
鯉江良二
澤谷由子
下村順子
新宮さやか
高柳むつみ
田久保静香
田中雅文
津守愛香
長谷川直人
本多亜弥
松本ヒデオ
丸岡和吾
安永正臣
柳原睦夫
山本亮平
吉川充
私たちにしてみれば、茶碗に今さらになにかを盛ろうとしても、さてなにがあるのでしょうか。茶碗にいったいなにを仮託するのか。自己というものでしょうか。ある種の宗教思想とか哲学でしょうか。私たちに独自の美意識でしょうか。侘び寂びの美というものでしょうか…。桃山期前後の和物茶碗を見ていると、そういったものがさまざまに具現されているように思われます。その様相は、わが国の陶磁史上、初めてといってよいオリジナリテの発現を見せています。当時の世界文明ともいえる中国趣味からの逸脱でもあったように思います。あれは一度こっきりの瞠目すべき文化史的達成だっと思われるのです。そしてやれること、やるべきことは、ほとんどやられてしまったのだなあといった溜め息をついてしまうのです。
だから、まったくの余地なしとはいえませんが、現代の作家といいますか、芸術の人にとっては、茶碗になにか新たな価値観とか精神性を盛ろうとしても困難なことのように思います。この現代という時代の私たちには無理なのではと思ってしまいます。また無理からぬことだとも思うのです。あの時代のものを横目に見ながら、作家はなんとか新味を出せないものかという悩みを悩むのではないでしょうか。八木一夫の茶碗を見るとそのへんのことがよくわかるような気がします。八木が自身の茶碗に盛ったものは、桃山や朝鮮のものへ向けた批評とか諷刺、あるいは翻案や趣向変えといったところでしょうか。もちろん余人の追随を許さないような域にあるものです。彼の人の茶碗は心にくいほどに曲者です。そこに屹立の境地が見られるのですが、それはやはりオリジンあってのものだったと思われるのです。八木もやはり現代の人なのです。八木といえども、古典に対する彼一流の付け加えと、独自の味付けをなすことがせいぜいのところで、それで以って瞑すべしと考えていたのではないかと思うのです。
それではなんで桃山というあの時代に、あれだけのものが一気に現れたのでしょう。それはたまさかあの時代に、茶碗という小立体に盛らずにはいられない時代精神の昂揚があったからだと思います。当時の古人もえらかったといえますが、古人だってたまさかあの時代に生を受けたにすぎないともいえます。そういった鉢合わせのような、時代と人との邂逅があったということでしょう。まこと人は時代の子供だと思います。
昔々、四百年以上前、とある山里の村落に、やきものを生業とし、一心に作りほうけていた工人たちがいました。彼らは柳宗悦いうところの民芸です。柳のいう本来の意味での純粋民芸状態です。彼らに私たちが抱くような近代的個我といった自我意識などありません。プライド高く、貧しくとも健康で、はつらつとしたもの作りの暮らしを送っていたことでしょう。昔の暮らしは暗かったというなかれです。
そこへ同時代人である享受側(茶の湯者、禅僧、武将など)からの強いベクトルが働くことになります。確信的作為といってもいいでしょう。彼らは、仏法である禅宗を奉じ、聖俗でいえば俗の生活に革命をもたらそうとする人たちでした。あの当時の禅思想に悟入した人たちの精神はきっとゆらぎのないものだったでしょう。そういった高次な精神とはどのようなものだったのでしょう。禅では、浄土教とは宗旨を異にして、自力でもって、いわばおのれをむなしゅうすることができるかどうかが問われるのだと思います。無の思想です。大丈夫のまま死を間近に見て死の練習をする思想です。それはイリュージョンなのかも知れませんが、それが信仰というものでしょう。そのために殉ずることも厭わないのです。すなわち生命の上位をいく価値観を持っていたのです。そのような人たちが体系づけようとした、人間としてのより善い生活。その実践のための道として茶が採用されたのだと思います。喫茶という一事に収斂させつつ、周辺の諸事万般も禅思想に貫かれる。貫かれているのだから、茶の世界で発揮される数寄という現物に対する思想にもゆらぎがない。その数寄は流行りもの廃りものといったレベルではなく、おのれの思想と美意識をかけた全人的なところから発せられるものでした。それが茶碗にも反映されたということでしょう。上述の民芸状態の工人たちは、能(よ)くそれに応えたのです。単純で壮大な話だと思います。
文化的、思想的に共通の価値観、基盤を欠いた時代からは、百年単位の経過に耐える力を持つものは生まれ得ないと思います。私たちが何度でも反芻(はんすう)させられるあの時代の茶碗は、時代をおおう時代精神によって、いわば面から絞り出されるようにして作られ、あるいは見立てられたものです。それに比すれば私たちは点です。点として茶碗を作り、点としてそれを享受することはできるでしょう。しかしそれは、より歓び少ないことではないでしょうか。孤独なことではないでしょうか。個の歓びが多あるいは全体に与(あずか)ることがないからです。
ここで筆者は忖度するのです、現代に生きる真摯で作家意識の強い人ほど… どこにおのれの制作の拠りどころ、立脚点、発火点を求めるのか。今の世をおおう近代精神のリアリティーのなかに生まれた自分は、近代精神を盛るしかないではないか。しかし自分の青春とも重なり合うその近代精神は、もう行き詰っているのではないか。一体これにどういった価値があるのか。唾棄したくさえなってくる。どうすればいい。いっそこんな時代のしり押しなど要らぬ。一個の点として終始するか。勝手に明滅していてやろう。しつこく明滅してやる。そしてこれでどうだというものを作り続けるのだ。点と点がつながれば線になるではないか。その線の先に真の理解者あるいは真の批評者がいてくれることを信じよう。おれにはおれの真面目と希望があるのだ。呵呵々…
遊碗展と銘打った本展も今回で十三回目となります。その度にいろいろと口上といいますか、この展に意図するところを述べてまいりましたが、つづめれば、一期一会的なものに出会いたいということに尽きます。そしてそれを機縁として作者、作品と、ひいてはお客様との交感ができればという思いが根っこにあります。遊碗の「遊」ということで、茶碗のイメージや規矩からの逸脱という意味合いも込めたつもりです。自由な心境で作っていただきたいという思いがありました。毎回平均で三十名前後の作家の方々が出品してくださったので、延べで四百名近くになります。目に焼きつくような茶碗が思い出されます。何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。-葎-