筆者は仕事を終え帰宅し人心地ついたらテレビの前に坐しあるいは臥し、これではいかんと思いつつ、懶惰(らんだ)な時間を過ごすのが日常みたいになっている。テレビっ子である。もちろん番組は選んで見る。しかしそれでも見て気持ちがよごされるような番組のいかに多いことか。かの国営放送も例外ではない。その質に絶望感を覚えることがある。報道番組しかりで、ネタの取捨選択に見え見えの底意(そこい)が透けて見えいやな気分になったりする。両論併記の配慮がない。ものの言いぶりにしても、なんで淡々と事実だけを伝えられないのかと思う。やたらと視聴者に問いかけてくる。暗に理解を求めてくる。ぬるい文学的センチメンタリズムにうんざりさせられる。なんとなく臭うイデオロギー臭もそうである。それなら見なければいいのである。しかし如何せん怠け者ゆえ、腹がくちくなったらついテレビの前に陣取ってしまう。
ところで浮世の商売のなかでも手堅いのは、昔から色と欲に訴える商売と相場が決まっている。テレビといえどもご同様である。筆者がよく見る番組に〝なんでも鑑定団〟というのがある。この番組は、一般の人からいろいろな骨董品を募(つの)って、前ふり講釈のあとでその道の専門家が真贋を鑑定し、観客の前でなんぼと算盤を弾く、といった趣向で長年続いている。長寿番組である。やはりこれも人の欲に訴える趣向であるからして長く続くわけであろう。色のほうもきれいどころをさりげなく添えていて心にくい。そしてテレビ桟敷の見物の内心の、ある種の残酷な優越感というか、依頼人の思惑がすべって転ぶのを見て面白がるといったいやらしさも、この番組は押さえどころとして心得ている。見れば依頼人はみな善男善女である。年寄りが多い。一段高いひな壇に居並ぶ鑑定人が悪人に見えてくる。鑑定はぶっつけ本番ではなかろう。すでに結論ありきで依頼人は満座のなかへ招じ入れられるわけである。まあ人がわるい番組である。スタジオではしばしば笑いが湧き起こる。この笑いは如何なる笑いか。和気のようなものも感じるが、筆者がつむじ曲りなのか、どうもこの番組を成り立たせている総意といったものにある種のいやらしさを覚えるのである。いやもとい、たかがテレビの娯楽番組である。一場のお座興とみればいいのである。筆者もその一見物です。
やきものも頻繁に出てくるので、そんなときは目を凝らす。テレビだからディテールまでは見えないが、一目でこりゃダメだと筆者ごときにもわかることしばしばである。微妙なものもある。これは真物だろうと直感することもある。それが鑑定人にひっくり返されたりする。いったいものの真贋とはなんなのか。人がものをただ所有しているだけなら真も贋もないだろう。それに愛着を覚え、美しく思い大切に思っているなら真贋などどうでもいいのである。知らぬが仏である。しかしときにものは人の欲によって動き出す。ものが欲をかくのではない。そんなとき人は一つの価値づけを欲するのである。この価値づけ(真贋の)が見ものなのである。そこに人間の悲劇というより喜劇的な場面が見られたりするのである。一流の骨董商の目利きは間違いが少ないだろう。精確であろう。それが信用となる。しかしプロによる価値づけにはなにか機械的なものを感ずる。結局ものの価値は、真贋だけで計れるものではないと思う。ものには百円の真物もあれば贋物もある。一億円の真物もあれば贋物もあるということである。真贋の顛末としての金銭的価値の多寡に執著するのは人の常である。しかし真贋を超える価値だってあるぞと言いたい。それは美であり、ものを善きものとして大切に思う人の心なのではないか…。件(くだん)の番組に引っ掛かった依頼人は、がっかり顔だが、憑き物が落ちて元の木阿弥顔と相成るのである。目出度い。これでいいのだと言いたい。
今日只今生きている浅野哲が生す作品は、正真正銘浅野哲のものであります。彼の用いる色釉のバリエーションは四十数色におよびます。この四十色以上の釉をモザイク状に、混じらず、縮れず、また垂れぬように、一発の本焼成で生かし切ります。1ミリに満たない境界を接して色釉が、所期の色を呈して、少し盛り上がりを見せながら画然たる様子で凝集しています。とてもシンフォニックです。試行と経験を何層にも積み重ねた末の一つの達成と言えましょう。ひさびさの個展であります。何卒のご清賞をよろしくお願い申上げます。-葎-
浅野哲(さとし)展Satoshi ASANO
Dazzling Arabesque Pattern
6/8 Sat. 〜 23 Sun. 2019