出来たものは昔に返らずという。近代以降私たちは、出来たものが多すぎて、その応接にいとまがない。十九世紀の蒸気機関や電燈から始まって、自動車ときて今のところ原子爆弾にとどめをさす。原子力発電は原子爆弾からの敷衍(ふえん)である。またナノ単位にまで極小化された電子回路は、電脳の飛躍的な進化をうながしつつある。まだまだこんなものではないだろう。そして機械あればかならず機事ありともいう。あの爆弾も使われるために出来たものである。電脳が合体されたらどうなるか。この不安を如何(いかん)せん。
この二百年ほど、私たちが科学技術を信じ、崇拝してきたのは、それがいろいろな利をもたらすからである。科学技術は不可逆的、加速度的に進歩してきた。そして一つの達成からさらなる達成へと連綿される。高みから高みへと繋がれていく。それは科学技術というものが、人に教えることができるものだからだと思う。教え教えられることで、科学技術は私たちの財産あるいは成果として、そのまま残してそのまま伝えることのできるものなのである。そして科学技術だけが、人間置いてけ堀の暴走的な進歩を見せているのである。
ひるがえって、精神上の財産あるいは成果はといえば、私たちのなかに連綿され、残されてあるだろうか。人間が人間らしくあるための智慧とか、今生を超えてまで考うべき形而上の問題とか、死に対する考えとか、いかに生くべきかといった人生の目的に関する問題といったもの、そういった善く生きるための問題をとことんまで突き詰めて考えた歴史上の人物がいる。釈迦牟尼はとくに私たちになじみ深い聖賢の一人である。あるいは孔孟老荘とか、ギリシャローマの哲学思想、キリスト教など、それらのなかに人類の究極の思想と智慧などはおよそ尽きていたのだと思われる。そして直接の弟子なり使徒なり、後嗣(こうし)たらんとした人たちは、のちのためにこれらを教え伝えようとしたのではなかったか。しかしながら、この二千数百年間(!)、教え伝えるという試みを試みて、とどのつまり無駄骨というか成功せずに立ち至っているのが、我も含めた私たち近現代人の有様のように思われる。ほとんど弊履(へいり)のごとく忘れ去ってしまっているのである。
精神上の遺産と成果は連綿されなかったのである。というよりそもそも残せないものなのかもしれない。ブッダはブッダで一代限り。ジーザスもそうである。もっと身近な人でいえば、利休居士も一代限りである。現にこの道は我一人(いちにん)限りの道であるということを言っている。ブッダもジーザスも同じような言を吐いている。あとはあんたたち次第だよということである…。その通りだろうと思う。再び精神上の財産は後嗣できない。何人(なんぴと)もブッダの到達した高みから再出発はできないということである。ブッダが生きて眼前にいるリアリティーのなかでなら話は違ってくるのかもしれない。私たちが信奉しているのは、科学技術の進歩と、そして今ある物と、あるいはある種の畸形な政治的宗教といったものであり、すなわち現代という時代そのもののように見える。過去を侮蔑しながら、現代に信仰に似たものを置いて安心しようとしているように思われる。それでいてますます昂じてくる不安に苛(さいな)まれているのである。これもまた如何せん。
また寄せ来る波のようで、またこいつは同じことを言っているぞと思われそうで、これからはもう止そうと思う。写真の安永正臣の作品は、どこかに埋(うず)まっていたものが、気の遠くなるような時間を経て、ガラス化しようとしているような風情である。シリンダーの連なりを見せて、遥か遠くにさかのぼる人間の営為の痕跡を匂わせる。これは粘度をもたせた釉による造形である。それをシャモットや砂、アルミナのなかで埋め焼きしたものである。
時間は永遠の影法師という。永遠なるものとは、それ自体で離在して存在しているもの、それがそのままで常在するものである。それをここで神とは言わないが、安永の作は永遠が映し出す影法師然としていて、これを見ているとカタルシスのようなものを感じさせられる。安永独特の詩的表白と認めたい。これも出来たものだが、これは安永の手によって出来た〝善きもの〟なのである。-葎-