先日、個展をひかえて川端健太郎の工房を訪ねた。間近になってきたので、案内状用の作品をいただきに上がったのである。写真の作品がそうで、焼成の終わったばかりのものだった。彼はそれを小さな窯の蓋を開けて手渡してくれた。これを技法的な側面から描写するなら、白磁プラチナ彩辰砂玻璃象嵌綴化碗とでもいうべきか。素地はカオリン、白磁土である。プラチナが、そこここに白く照り映えている。高台とその周辺はしのぎが入って総プラチナ彩である。釉としては、辰砂の朱紅色とオリベの青緑が同時に呈色している。どちらも銅による発色のヴァリエーションである。萌黄色の硝子片(玻璃)が見込あたりに象嵌されている。それが熔けてなだれを打っている。綴(てつ)という漢字は、つづると読むが、つなぐ、とじるといった意味のほかに、ふち、ふち飾り、あるいは飾りをつける、あやをそえるといった意味もある。綴化(てっか)とは川端の造語である。
綴化された部分は茶碗でいえば口縁(こうえん)だが、その口縁全周が綴化されていて、これはもう一個の造形物、オブジェの風情である。これでは見立てもきかない。拒否しているかのようだ。仮にだが、綴化の部分をこのまま伸ばし広げていくとしたならば、この作品の径は25cmほどなのだが、一体どのくらいまで広がっていくだろうか。この稠密(ちゅうみつ)かつ大胆で冒険的な褶曲は、川端のマジカルな手指のなせる業(わざ)であり、不可説な凄味といったものを感じさせる。凄味はそのアクロバティックな技術にも窺われる。
川端の作品を見ていつも感じることなのだが、この人の感性はユニーク無比である。彼の感性は詩人のそれに近い。すぐれた詩人の感性は、そのまま詩人自身の心魂に直結しているものである。詩人はまず感性によって驚き、憧憬し、畏れ、あるいは傷つき、絶望し、死にさえ甘美な匂いを感じとる。そのような純粋な感性が内奥の心魂をふるわせるのである。心魂は顫(ふる)え、あるいはおののき、そしてあたかも楽器のように妙なる音楽を奏でたり、あるいは厭悪の不協和音を発する。詩人はその心魂の叫びのようなものを詩神の命ずるまま引き写すのである。そして真に迫ったミュートスを謳うのである。詩人にさかしらな知性といったものは不要なのである。
川端は無口な人である。しかしその鋭敏で詩的な感性のうちには、芸術のロゴスが、詩藻(しそう)が、豊かにたゆたっているようだ。彼の制作のモメンタムは、生命に対する全肯定、謳歌を定点に据えるものであろう。しかし同時に複眼的に、死というものも見据えた生へのまなざしがある。野の草であってもその死を微細に観察し、死を思うからこそ、彼の目に、作品に、生が鮮烈に映えてくるのだ。彼は生きとし生けるものの美の諸様相に憧れ驚く。彼独特に、まるで昆虫のように微視的に憧れ驚く。そんなとき彼は生への歓喜の気持ちでいっぱいなのだろう。しかしときには彼の場合、世の常の人よりもずっと深く、生と死の、あるいは有と無の間の絶対的隔絶に思いいたることもあるのではないか。しかし彼はこうも思うのではないか。いま自分と自分が見ているこれは、必然に壊れゆくものだが、たしかにここに存在しているではないかと。我とこれは一緒に絶対否定の死と無に向かっているとしても、この死なねばならぬ、無に帰さねばならない自分とこれとは一体なんなのか。自分とこれがいまここにあらねば、死も無もなんのためにあるのか。そうとすれば我と眼前のこれとは、有と無との間に、中間的な存在として厳にあり、確かに存在しているではないかと…。
こんなことは筆者の繰り言で、川端の思うところではないかもしれない。しかし私たちの存在はいわばつねに無の深淵にさしかかっているようなものであり、私たちの存在はみな無の深い谷底にかけられるようにして存在している。しかし、そこにかけられているということがある。そこに何かかけられて〝ある〟ということである。それが無に対する有というものだと思う。あるいはそれが存在という言葉で言われるものなのだろう。写真の川端の作品は、無の深い谷底に架けられた吊り橋近くに咲く花のように思えてくる。ひと言でいうなら美を包含して強烈な〝存在感〟を放っている。これを見てつい由なきことを綴(つづ)らせられてしまった。-葎-
川端健太郎展Kentaro KAWABATA
Existence against Naught
9/7 Sat. 〜 29 Sun. 2019