歴史はくり返すということがよくいわれるが、歴史に必然性はないと思う。そのときどきに、無数のさまざまな偶然が歴史に作用するからである。人間のやらかすこと、その成り行きなど、たまたまそうなってしまったという側面が大きいのではないか。あとでかえりみて、あれは必然だったのだと思ったりするのである。たしかに人間は、過ちや愚行を懲りずにくり返すどうしようもない癖(へき)がある。しかしながら、似たような出来事でも、個々にみればそれぞれに違う。その意味で歴史はくり返すとはいえないだろう。個々の出来事一つ一つのなかで、きわめて人間的な諸相が顕(あら)わにされ、偶然によって惹起(じゃっき)された事態の推移が複雑に進行していくのである。歴史はくり返すというより、むしろ歴史という器にはあらゆる出来事が時代の先後なくパラレルに、カオス的にぎっしりと詰まっているというべきだと思う。
私たちは歴史を考える際、過去の出来事についての正確な事実を取り上げ、人間とはどういうものなのかということも頭に置いた、そのような歴史観を養わねばならないのではないか。歴史は人間が織りなすものだから唯物史観ではダメなのである。そのためには教育とか、すぐれた歴史家の労に多くを負わねばならないのだろう。しかし今の学校教科書が、健全というか当たり前な歴史的教養を身に付けさせようとするものなのかどうか。現在の教育はほとんど絶望的だろう。また現代において、国民的一般的教養の書として、読むに耐えるようなすぐれた歴史書が新たに著されたことがあっただろうか。私たちは歴史というものに対してほとんど無知の状態にいるのではないか。近頃の大卒などびっくりするくらい知らない。ということは、これから起きることで、過去にもこれと同じようなこと、似たようなことがあったぞと気付くことはまあないだろう。そして、すでに自己を映し出す歴史の鏡を持たない私たちは、どのように振る舞えばよいのか見当もつかずうろたえ、恐怖し、混乱し、またぞろ打ち揃って正気を失うようなことになるのかもしれない。
お話変わって、私たちは長年に渡って他所様から歴史認識について執拗(しつよう)に指弾されている。あちらとの仲が変なことになったことの端緒は、この歴史認識とやらにある。火付けとご注進をやったのは、こちら側のある人たちである。だから指弾されるのは自業自得ともいえる。その後、謝り倒してきた。迎合というか卑屈である。自らを侮る者は必ず他からの侮りを受けるという。だからこれあるかなで、しょうがないのだが、やはりなにか受け入れ難いものがある。筆者はいつも思うのである。歴史認識歴史認識というが、自分たちの歴史認識はどうなのか。はたして貴方たちは他を難じるとき、自国の歴史に対して完全に無罪なのか、無実なのか。過誤や不作為はなかったのか。言いたくなるのである。そもそも歴史認識は自己へ向けられるべきものなのではないか。歴史という器には、美と醜、正と邪、崇高と卑劣、英知と愚昧などがあふれんばかりに盛られて壮観である。それらはすべて人間的なものである。およそ人間的なもので満ちていて、いかなる単純化も許さないだろう。そしてそれは単なる人間的なものの枠を越えて、むしろ悪魔的なものにつながっているようにも思われる。そこから私たちはなにを学べばいいのか。歴史に対する共通認識はそのへんに置くべきではないか。歴史を単純化するのはやめていただきたいと切に思うのである…。こんなことを言ってもダメかもしれませんが、以上のようなことであります。ちなみに筆者は、こちらでは勝手に呼び慣らわしていますが、高麗茶碗の大数寄人間です。かしく。
一昨年以来五回目の新宮さやか展であります。先日彼女に会った際、ちょっと疲れたような様子で、作りながら作品が自分のイメージから逸(そ)れていってしまうようで、自分でもなにか不足感を覚えて仕方がないというふうなことを言っておられました。そこには疲れといったものも影響しているのかしれませんが、筆者はさもありなん、創作においては、つかんだと思えばまたするりと逃げて行ってしまうままならなさが常だから、そこはあがきもがくしかないでしょうと残酷なことを言いました。追い込みをかけるようなことを言っております(深甚なるシンパシーを込めて)。さて今回や如何。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-