戯(ざ)れ歌に〝元旦や今年も来るぞ大晦日〟というのがありますが、まこと駒光(くこう)馳するがごとしでして、時がかくも神速に過ぎゆくのをただ眺めおれば、夢とうつつの境目が茫洋としてきて、歳を喰らうほどに筆者などはもうなにがなんだかわからぬような仕儀となりつつあります。〝夢の世は夢もうつつも夢なれば醒めなば夢もうつつとぞ知れ〟という詠歌が身に沁みます。それにつけても、時がますます加速度を増していくように感じられて仕方がありません。しかしそれに抗ってもしょうがなく、不承不承ながらも、勝手に来(きた)りて勝手に過ぎゆくべしといった心構えでいたいと思っている昨今です。皆様ご多忙の歳暮の折、ご自愛専一にお過ごしください。
さて本年師走、掉尾(とうび)を飾っていただくのは長谷川直人さんです。
彼は寡作といえば寡作の人ですが、大学に奉職しながらも、自身の制作をおろそかにせず、作家としての矜持を保ち続けて来た人だと思います。写真にご覧の〝たたそこにあるもの〟。こういった作品を、彼は一つことのように追い求めてこられました。その作品世界は、一貫性、自己同一性、インテグリティーといったものを感じさせます。写真の作を一瞥ご覧になっていかがでしょうか。多分別れることと思います。興味を催さず洟(はな)も引っ掛けないような一派と、尋常ならざる興味を示す一派(筆者はこちらです)ということになるような気がします。いわば路傍の石のように〝ただそこにあるもの〟は〝just something that is〟といった風情でただそこにあります。
その風情はまあ盆石のようなものともいえましょう。有用無用で言えば無用のものです。用途性などはありません。触れることはできますが、ただ見るだけものです。鑑賞陶器でもなし、鑑賞〝物〟というようなものでしょうか。しかしながら、彼の作はただ見るあるいは鑑賞するから、観る、そして観照するといった次元へ見物側を引っ張っていく力を秘めているように思われます。それがなにかと問われると言葉に窮するのですが、筆者なりの印象をあえて陳(の)ぶれば…
これは型のなかに石炭とか練炭の灰、長石、二酸化マンガン、硝子粉など数種類の釉薬の紛体を詰めて、高火度焼成されています。焼いてから、型をはつり取ってなかのものを得るわけです。彼がやっていることといえば概略そういったことです。しかし型のなかで生成され、生まれ出るように取り出されたものは、この世ならぬ存在感を放っているように筆者には感じられます。どこから来たのかというふうな印象を覚えるのです。これも型成形なのですが、彼の場合、ちょっと意表を突いております。普通は型を作る際、そのための最初の造形が必要です。しかし彼は原形なしに型から作り始めます。作品のための、型のなかのうつろな空間を、先ず作るというか設けるようなことをしているわけです。これはユニーク無比です。
彼がこういった手法を採用した所以は、制作のプロセスのコアなところで自我の痕跡を薄めようとする意志があると思います。もちろん最終的なフォルムとか仕上げといったことは彼の意中にあると思います。全工程は彼の作為の支配のうちにあります。そうなのですがその上で、始点(元の造形)を持たない型のなかの小宇宙で起こる生成と変化に託し切るといった態度を感じるのです。こういった、やきもの的な、窯とか火に自身と作品を無自覚に流し込んでしまう傾向は、ある種の陶芸家に見られがちなことですが、彼の場合、どういったいいのか、その手の放しようといいますか、禅にいう放下(ほうげ)といいますか、おのれまで空(むな)しゅうしようとするということにおいて、より深いものがあると思うのです。創作のコンセプトが堅固かつ非常にクリアです。自力と他力の見事な合一を見るようです。彼の〝ただそこにあるもの〟は、型のなかで自(おの)ずからの生成変化を経て姿を顕わすのです。そのたたずまいとディテールにじっと見入っていると、宇宙に浮かぶ小岩石のごとしでして、その離在感、濃密な存在感とあいまって、生命のエレメンタムさえ秘めているように思われてくるのです。
何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
長谷川直人展Naoto HASEGAWA
Just Something That is
12/7 Sat. 〜 25 Wed. 2019