池田省吾は筆者にとっては最も遠くに住いする人で、ご本人とはもう十年近く仲良くしていただいているのだが、一度もお会いしたことがない。当方から伺いとか誘いをかけることもあるのだが、なぜだか会わずじまいできた。こちらの怠慢というか生来の出不精と、彼の人見知り的なところが微妙に変なバランスで均衡してしまっているのかもしれない。とはいえ彼はいつも力のこもったよいものを送ってきて下さる。こちらから毎月消息文のようなものを送っているので、一方通行ではあるが、いわばペンフレンドのような間柄になっていて、そこにある種の信頼関係というか相互理解が成り立っているのか、よくはわからないがそんな気がしている。
彼の来歴をみると、特定の師匠について勉強したということはないようだ。しかし学校は有田窯業大学校をはじめ三つ出ている。ちゃんとすべて卒業しているようだ。二十代のことである。最初の学校はデザインの学校で、これは東京にあり、入学は十八だろう二十歳で卒業している。そして卒業してすぐに、彼は陶芸の世界へ舵を切っている。この時点で東京に厭(あ)くものがあったのではないか。ふるさと鹿児島へ帰り、工業技術専修校の陶芸系に入り直している。その後に有田窯業大学校へ行くのである。この間、月並みな言いようだが、青春の彷徨(ほうこう)とか蹉跌(さてつ)といったこともあったであろう。しかしそれがあったからこそ自己への気付きがあったのではないか。進むべき道の選択がなされたのである。それは強い意志をもってなされた選択だったように思われるのである。
思うに彼はほぼ独学の人であると思う。よき師匠との邂逅、よき先生がいる学校との出会いは、今日ではなかなかむつかしいことになってきている。師表の恩とかその有難い縁というものを思えば、ほとんどそれが有り難くなってしまっている。彼は特定の師匠を持たなかった。また学校で得た技術的なところは、離陸のためのとっかかり程度にとどまるものだったのではないか。現在の彼の花開くような多様でカラフルな作品世界は、その才能に多くを負うものだと思う。いや才能とかタレントというより彼の場合、ギフトと言うのが当っているように思う。タレントといえば、その人自身の持つ尖った部分をいうのだが、ギフトというのは、天から与えられてある天稟(てんぴん)ともいうべきものでる。筆者は、うまいなあと思わず唸らされる彼の画(え)に接するとき、彼に天稟の予感を覚えるのである。天稟などとほめ過ぎだろうか。しかしほめるほうにも勇気に似たものがいるのである。
お話変わって某日某所の茶事でのこと。それは仁清乾山の道具をつかうという大寄せの茶会だった。メインの濃茶席では瀬戸黒の小原女(おはらめ)も出るということだったので、大寄せはきらいだが行ってみた。何席か懸釜されていたが、そのなかで名古屋の道具商の青年部が亭主をつとめる席があって、憚りながら主客で連なった。薄茶席である。ひどいものだった。来客のおばちゃんたちを詰め込むだけ詰め込んで、愛想なしの、点前もなしの点(た)て出しである。お揃いの数(かず)茶碗で点て出しが始まる。そしてその一碗目が運び出されたとき、一瞥、おお池田省吾ではないかと急にうれしくなった。しかしそれを手に取り、茶を喫するにつれてなんだか違和感がつのってくる。茶をすすり終わり見込をのぞけば、網タイツのバニーガールがこんにちはといっている。これは完全なまねっこだと遅まきながらわかって、筆者は中っ腹で道具屋のお兄ちゃんたちに池田省吾という人をご存知かと聞いた。知らぬという。この日のために、とある売出し中の陶芸家に特注したのだという。得意気である。道具屋はもっぱら古ものを扱うので、今のものには目がくらむのかと思ったが、それにしてもこの人たちの行く末が案じられた。これは本歌(池田のもの)があるのでそれのレベルの低いいかものですよと言ってやった。その茶碗はひと言でいえばきたない茶碗だった。まねするのはいい。しかし全きエピゴーネンである。見れば見るほどに、本歌に媚び、受けねらいで迎合しているかのような心根のいやらしさが透けて見えてくるようなものだった。会記には漫画織部と記してあった。しかし画が下品というか、劇画調なのである。劇画のなかには、あ、こりゃきたないと目をそむけさせるようなものが多い。なにが言いたいかといえば、出来そこないの劇画家とたとえば手塚治虫のような漫画家との歴然たる隔絶感。これほどに違うものかと、件(くだん)の茶碗があんまりに如何にもの〝いかもの〟であったがゆえに、よけいにしみじみと実体験したのだった。そしてあらためて池田省吾という作家が心魂に蔵するギフトというものに思い至らされたのだった。-葎-
池田省吾展Shogo IKEDA
Epigonen and The Real One
2/8 Sat. 〜 23 Sun. 2020