原憲司の作品は、根本的なものの具体的な現れがあると思う。われものを生(な)さんとするとき、根本的な問題意識をつねにおのれに課す人であるように思う。彼は根本に向き合い、直観し、想像を広げ、さらに吟味を加えるといった道程に入って行く。そしていわば彼にとっての一(いつ)なる素材、それを求めての妥協なき渉猟がある。すなわち直観、想像、吟味と相前後して行為、行動が随伴し、実証を得ながら徐々に当初の直観された根本的な問題に肉薄していくのである。そしてついに一つの作品への統合、具体化の段階に達する。彼のこのような姿勢は、本当の意味で真なるものに迫ろうとするものであるように思われる。彼は不二の、一なるものをとことん求めて止まない人なのだと思われる。
筆者は、原のたとえば小さき珠のような作品を掌中にするとき、美しいなあと思いつつ、これはさまざまな抽象が総合され、凝縮された一つの具体であるという、そういった感を新たにする。これは高度な抽象を経た具体であると。あるいは双方を兼ね備えたものと言ってもいいか。
抽象的とか具体的とか人は言うが、はっきりしない意味で用いられていることが多いのではないか。見たから、聞いたから、手に持っているから、なんでも具体的で、そうでないものは抽象的であると考えたりしている。しかしたとえば、筆者が今ここで、何でもいいのだが一つのリンゴを手に持っているとする。たしかにそれを今眼に見て、手に握っているのだが、それだけでは具体的ではなく、むしろ抽象的であるとも考えられる。抽象ということは、全体の関連から切り取られ、引き離されたということなのだから、この一個のリンゴを手に持って見ているのは、抽象的であるとも言える。一方具体的ということは、より俯瞰的に見ることであって、このリンゴを、リンゴ園の木の上に、大地と太陽と風と共に、さらに人々の生活と共に考えるということなのだと思う。だから実際に見えるとか見えないとかということではなく、それが全体の関連のなかで見られているか否かということで、抽象、具体の区別がされるべきなのである。
そのような区別に立てば、抽象という言葉には良い意味、悪い意味、両面併せ持つところがある。政治に関する抽象論は空想とか単なる理想に陥り危険である。哲学も政治に似てしかりである。専門科学は抽象を突き詰めていってそれで成立するものだが、哲学は元来専門を統合し、なにが私たちのためになるのかを俯瞰し、批評するのがそのレゾンデートルであろう。政治も哲学も具体でなければならないのである。専門科学の盲目的暴走が近代以降、邪悪なものをたくさん齎(もたら)してきたことを思えば、隣りは何をする人ぞといったことに対する吟味と批判は最重要事で、それを託せる少数のすぐれた人たちを、やはり私たちは必要とするのではないか。
芸術のことをいえば、芸術に抽象はつきものである。ただし最終的に抽象を統合し、具体へ昇華できなければならないと思う。この点、芸術は哲学と同根の兄弟的な側面がある。しかし具体への昇華といっても、それはアブストラクトな表現であってもいいのである。それが独りよがりの、難解を装ったような難解を脱して、ちゃんとものがものをいっていればの話だが。ものがものをいっているということ、それが具体であろう。
原憲司の場合、やきものには素材の問題がある。各プロセス、道具の問題がある。さらに古典、歴史との渡り合いといった、史料批判的なことも根本問題となるのだろう。彼は美濃に住まいし、山中に見つけ難い素材を尋ね、原材料を人力で突き砕き、精製し、手回しのロクロでかたちにする。求道的ですらある。すなわち根源的なところに始点を置き、素材、プロセス、道具、歴史といった、それぞれの部分に通暁し、最後にそれらを総合し作品に結実させているのである。目的と手段でいえば、やきものの制作に必要となる多様な手段、あるいは通路のそれぞれを、彼は抽象によって研ぎ澄まし、その上に立って黄瀬戸瀬戸黒志野以下の真に迫るものをものしているのである。結局なにが言いたかったかといえば、彼のやっていることは哲学的なきびしい手順というか方法論に通じており、ゆえに彼の作るものは、余人を超えて美しくも真に迫った、彼歴然たるものとなっているのだと思うのである。-葎-
原憲司展Kenji HARA
His Philosophical Method
3/7 Sat. 〜 29 Sun. 2020