津守愛香は、ある真言宗の古刹の所望を受けて、昨年から八大童子のフィギュアリンを制作している。八大童子といえば、不動明王に仕える眷属(けんぞく)であり使者でもある。高野山には鎌倉時代の運慶による国宝が蔵されている。不動明王は、大日如来の忿怒(ふんぬ)を表徴した仮の姿、化身ともいうべきものである。その忿怒の対象は、もちろん凡愚の衆生である私たちであろう。八大童子というのは、不動明王の使者として、無明の闇に迷う衆生に気付きをうながす存在のように思われる。とはいえ童子たちは鈷杵(こしょ)という鈎爪の武器を手に持っている。次第によっては荒ぶる童子でもあるのだろう。津守はすでにコンガラ(矜羯羅)童子とセイタカ(制多迦)童子の二体を完成し、あと六体を作っていく。
仏教は一神教ではないから、本来は偶像崇拝を禁じるユダヤ系の宗教とちがっておびただしい仏神像が作られてきた。いや原始仏教も偶像など予定していなかっただろう。釈尊はなにも仏教というスペシフィックな宗教を創始しようなどとは思っていなかっただろうから。しかしその後の事情は天神地祇(てんじんちぎ)なんでもありで、八大童子もおそらくヒンドゥー由来の神々の末裔なのではないか。童子の名のコンガラとかアノクタ、ウグバガなど、いかにもそう思わせる。とまれ仏教は偶像だらけである。その頂点に位(くらい)するのが釈迦とか大日、阿弥陀とか薬師といった如来像なのだろう。
如来や菩薩像は、涅槃、正覚といった形而上の超越的な境地を抽象して、そのたたずまいと表情は静まり切っている。そしてその下位に、明王とか神将とか権現、八大童子とか羅漢などその他もろもろがいて(とくに密教に多い)、如来の衆生救済を助ける役目を負うのだが、これらのキャラクターたちは、私たち人間の心の諸相を模しているようにも思われる。だから身近に感じたりもする。私たちの心の動きとか波打ちをパトスという。パッションなどという言葉もパトスに由来している。根本の意味は受動、パッシヴである。私たちの心はいろいろに動かされるのである。なかなか明鏡止水というわけにはいかない。外物や身体の知覚が私たちの心を動かすのである。その現われのようなものがパトスであって、たとえば怒りとか恐怖、哀しみ、憐れみ、喜悦とか愛憎などと列挙できるだろう。激情から温情まで、そういったパトスが見事に、毒気まじりに、ダイモーン的に彫像化されているのが仏教の世界だと思う。如来や菩薩にすがる前に、まずおのれ自身を映して見よと言われているような気がしてくる。
写真の津守の作品は〝三つ目のうさぎ〟とタイトルされている。一見キティちゃんといったイメージキャラクター的な風情だが(失礼)、そのような浅薄なものではなく、激情から温情まで渦巻くパトスを内に湛(たた)えながら、ずしんとした存在感でこちらに迫ってくる。額のあたりのバンドエイドによって三眼が隠喩されている。仏像のなかにも三眼のものがあって、額に縦に第三の目を持つ。三眼を隠しているのは何故か…。
筆者はこの作品に自然と湧いてくるシンパシーを覚える。それは作者である津守愛香という人の人となりが、抽象を経て見事に具体化されているからだと思う。それはたとえ彼女を知らなくとも同じことだと思う。見る者をして、内奥から湧いてくる情のようなものを生ぜせしめる力を宿しているように思う。パトスにはプラスのものマイナスのものがある。それを善悪と置き替えてもよい。パッションはときに人を破滅もさせる…。この作品はなかなかに重層的である。すぐれてリリカルである。作家津守愛香が、パトスの彼岸に立って自己を見つめ直したような、そのようなものとして真に迫ってくる。どこか静まりも見せて、彼女の善なるエートスを示しているように思う。重層的に抒情的に深くものいう作品に出来上がっていると思う。これもある種、仏(ぶつ)の眷属のような気がしてくるのである。
彼女三回目の個展であります。フィギュアリンを中心にうつわにも力を注いでくださっているようです。何卒ご清鑑賜りますよう伏してお願い申上げます。-葎-
追伸:武漢発の濾過性の微粒子が蔓延しておりますが、
皆様くれぐれご自愛の上
お気を付けくださいませ。