六回目となる今回の高柳むつみ展は、二度日延べをしてようやく開催の運びとなった。こういうことはめずらしいが、武漢コロナの影響というわけでもない。彼女自身の失敗というか目論見はずれによるもので、焼成中、作品がそれに耐えなかったということらしい。高柳の作品は磁器である上に、アクロバティックで冒険的なフォルムをとることが多い。その上ディテールに尋常ならざる意を凝らす。デビュー以来それを難なくやりこなしてきたように傍目(はため)には見えるが、筆者はよくまあこれだけの危ない橋を渡り切るものだと、感心し、驚きの目で見てきた。彼女にはそれを可能にする技術が生得に具わっているように思われた。今もその技術は向上の途にあるのだろう。
順調にせり上がってきていた人が、突っ走っていた人が、原因のわからない微妙なことでつまずくことがある。もの作る人にとっては、それが悩ましくも深刻なことに発展することがある。才能豊かな人ほどそうである。イケイケで勢いづいているときは、すべてが順調に運ばれているように感じ、結果オーライのなかで、思い描いた果実を首尾よく手にすることができるものである(一抹の不安を覚えながらかもしれないが)。しかしそれがいつまでも続くわけではないだろう。陶芸でいえば、駆使できる技術を掌中にし、素材は自身のコントロール下にあり、窯の隅々まで知り尽くしているつもりでいても、やはりいつかは蹉跌(さてつ)の時というものを経験することになるのである。
私事ではばかるが、筆者は二十頃まで結構本格的に体育会系の剣道をやっていた。剣道は奥深いので若ければよいというわけではないが、やはり身体的には、十代中盤から後半にかけての時期が、筆者のピークだったように思う。身体が気合とともに鋭利に瞬時に反応し、なんだか宙を舞っているようないい気持になったことがある。身体がイメージ通りに、いや意識さえせずとも動くのである。間合いを見切ることができ、ピクリとした動きからでも相手の次の動作が直感できるというか、自慢じゃないがそのような境地である。しかしそれも一時だった。酒タバコのせいもあったように思う。驕(おご)っていたこともそうであろう。その後は、おのれの身体に対する違和感というか、精妙な調和を乱(みだ)されるような不協和音に苦しんだりした。それでもやめずに継続していれば、いつかまた他日のせり上がりを経験できたのかもしれないが、いやになってそれきりになってしまった。あの青春の一時期は、筆者にとっての、二度ともうそこでは遊べない失楽園のようなものである。
芸術の人の蹉跌はもっとも悩ましいものであろう。それに耐えずに終わってしまう人がいる。どこがどうおかしくなってしまったのだろうと、その原因を必死に探ろうとする。あるいは過去に想起しようとするがわからない。それが技術とか素材の問題にわたるものなら、思い当たってあるいは軌道修正がきくかもしれない。しかし芸術の人が思い知る違和感とか不足感、あるいは不安感といったものは、たとえば自身の自画像を凝視してこれは誰だと思ってしまうような、そのようなものなのかもしれない。そんなとき、憑(つ)き物が落ちた自分を見ているような愕然たる気持ちがするのではないか。しかしながら芸術の人は、肉体とか感覚的所与を超えて、その向うの善美なるもの、真にせまるものをひたむきに志向する精神の昂揚と充実が必要とされるのではないか。そのなかで失敗と過誤を繰り返しても、不足感や違和感に苛まれても、なおエロース神の祝福を渇望する心を失ってはならないのではないか。そして人生の長きにわたって継続さるべき仕事となすべきなのではないか…。まあくさらないでということである。
人生は〆切の連続というのは筆者の謂いであるが、零細吹けば飛ぶような弊館だって〆切で動いている。今回、つい二度の日延べに応じたのは高柳だからかもしれない。実は特別視しているのである。えこひいきになりそうだが、近頃の彼女の悩みを見て、わかるような気がしてシンパシーを禁じ得なかったのである。上述の条々は彼女へのエールになればと思い云爾(しかいう)。-葎-
(写真の作品は、高51.5cm、ロクロ挽きの5ピースからなり、差し込み式の台座が後から付いてきます。何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます)
高柳むつみ展Mutsumi TAKAYANAGI
Longing for the Blessing of Eros
6/20 Sat. 〜 7/5 Sun. 2020