中国ではじめられた青花(せいか)は、わが国では染付という。青花の焼造は宋代にはじまり、元代に景徳鎮で完成したといわれているが、それなら、宋代と思われる発生的青花を一度見てみたいと思うのだが、図録などでも見たことがない。知る人あらば、ご教示を請いたいと思っている。それはさて措き、あの美しい呈色は呉須(コバルト)によるものである。絵付けのときは茶褐色をしているが、釉をかけて還元炎焼成すれば、目にも鮮やかな青に化ける。これも試行の末の一つの達成であって、そのマジカルな誕生譚(たん)の周辺には、人々の美への憧れと祈りといったものが想像される。思うに白磁にしろ、青磁にしろ、それをこの世に現出させる原動力は、人々の美に対する憧憬であり、実現に向け人を衝き動かすものは、美を希(こいねが)って止まない生命の躍動のようなものだと思われる。
わが国で染付が行なわれたのは、ずっと下って十七世紀初頭、有田においてである。連れて来られた李参平が、泉山に陶石を発見したのである。呉須のほうはどこに求めたのだろう。とまれ端緒はそういうことだったと伝えられている。初期伊万里の出来(しゅったい)である。その後、主として明代の染付を手本としながら、茶人の趣味などが加味され、独自の洗練を見せていくことになる。やがてこういうものをお作り下されと、本歌の国に注文までするようになる。粗卒(そそつ)な作りの古染付は、茶人の数寄にぴったりである。日本向けの輸出品として作られた。よって中国や欧米に遺品はのこっていないらしい。一方、祥瑞(しょんずい)は、茶陶の染付では最上のものとされ、素地も呉須も精選されており、その発色は鮮やかである。往時の茶人のワイドレンジな好みとか、高尚なディレッタンティズムが窺える。この消化力、翻案力、いわば中国の普遍性をわが国独自に特殊化しているわけである。
大阪市立東洋陶磁美術館に、青花蓮池魚藻文壺という重要文化財の壺が所蔵されている。元代の十四世紀の作と目されている。七百年の時を閲(けみ)して完品である。言葉で描写しても詮ないが、さまざまな吉祥文とともに、ふくらみのある胴に蓮池を遊弋(ゆうよく)する魚が二尾配されている。元代の天然呉須は一等きれいである。それが濃淡ゆたかに純白の素地に映える。魚は細身のコイのような魚と、もう一尾、淡水魚らしからぬデフォルメされた魚が、尾ビレに水草をからませながら、悠々然たる様子で泳いでいる。全面に絵が描き込まれているのだが、余白の効かせようが素晴らしい。その姿カタチ、筆致、デザイン、呉須の発色すべてにおいて、中国青花磁器の一つの結晶体のような作である。
いまだ新進の小坂大毅は(1988生まれ)、染付におのれの道を歩もうとしているように思う。染付の世界でものいうのは、とどのつまり絵心のありやなしやにかかってくるのではないか。かてて加えて陶芸の場合、絵付けは立体に施すものであるから、その絵付けと立体との平仄(ひょうそく)は如何(いかん)といった困難な部分もある。絵付けをして、その絵付けをある立体がまとって、一個の作品としてのインテグリティー、すなわち凝縮された統合性といったものを示し得ているかどうかが、成功不成功の残酷な分かれ目となるのではないか。染付をすなる人は多いが、そういったボーダーラインを越えんとして肉薄できる人は稀である。小坂はむつかしい道を歩んでいるのである。
なにか彼をおどかすようなことをいっているようで恐縮だが、どうせやるなら高嶺(たかね)を仰ぎ見ながら道を行ってほしいと思うのである。そして具体的な高嶺を見つけてほしいと思う。それはある時代でもカテゴリーでも人でもよい。その高嶺の頂きを見失わぬよう道を行くのである。彼はまだ年若である。そしてなにより今に生きている人である。生きている者のみが前進にせよ後退にせよ、その高嶺への一歩一歩を刻むことが許されているのだから…。そこにものを生すということの歓びも見つけていただきたいと思う。もひとつ付言すれば、小坂さん、遊びの要素も忘れずにね。
弊館での初個展であります。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
小坂大毅展Daiki KOSAKA
The Long & not so easy Road
8/1 Sat. 〜 16 Sun. 2020