鯉江良二が死んだ。この世からいなくなってしまった。もう手をのばそうが声をかけようが届かない。ボケ始めた頭にもいろいろなことが思い出される。一つの大きなことの始末がこれでついたような気がしてくる。こちらももうそろそろ店仕舞いのときが来ているのかもしれない。この際なにか一文を草したいとも思うのだが、暑気に当てられ、あれやこれやと断片が浮かぶばかりでダメである。先生堪忍。往事茫々であります。
十年前の晩春の個展は、先生が病を得るちょっと前の個展だった。京都へ出張っていただいて、あちこちで土を掘り、ワークショップ、対談と、盛りだくさんの濃密な時間だった。鯉江良二 IN KYOTO である。以下は思いなしたっぷりの作文だが、あらためて自分があの人に惚れていたのがわかる。
…先だって1月(2010)、先生と土掘りに行った。京都は北山の雲ヶ畑の山へ入る。雲ヶ畑に住まう村田森がパイロット役を買って出てくれて、ご子息の明君、その友の畑中君という一行である。道は雪が残っていて、クルマは尻を振り、タイヤは空回りする。タイヤチェーンなしで危なかったが、山の頂上あたりの土を目指す。結局最後の登り切りのところで立ち往生となる。スコップで雪をかく。土をまいてタイヤにかませる。革靴で行ってしまった筆者は、たまらず二度ひっくり返った。別にここで長居しようというのではないが、冷えるのでなかば洒落で焚き火でもしようと思い小枝を集めて火をつけようとするが、しけっていて思うようにつかない。車中の先生は見かねたか、ダンボールをちぎって持って来てくれる。乾いていそうな小枝を集めてくれる。どこかかいがいしい。
やっぱりこの人、火が好きなんだ。土に遊び、火を恋う人。そういえば、木・火・土・金・水を五行というのか、これら万物生成の五元気をおのれの元気となし、五つのあいだを融通無碍に往還しものを生み出してきた。五つがあいまってやきものはあり得る。土に突貫、泥中を走りつ、諸元気と一体となって、火の玉小僧となって、余人に遊びがたきところで遊んできた。身体を張って危ない橋をわたるように。危うきところに遊ぶということである。よくまあご無事でといった感を催させる。筆者はこの人の一生懸命さ、その高風を欽慕(きんぼ)する。土は採れた。クルマも転回できたので山をおそるおそる下りた。
土の目途はついた。上賀茂神社近くの土と、先ほどの雲ヶ畑の土である。村田森の仕事場近くの土も使わせてもらうかもしれない。先生は四月いっぱい京都で仕事をする。京都工芸繊維大学(差配は澤田美恵子教授)でのワークショップ、制作、そして詩人の谷川俊太郎氏との対談。さらに場所を変えて京都精華大学での野焼き、楽焼き。そしてこの個展と盛りだくさんである。居続けしてもらえる宿も、精華大の奥村博美の協力を得て確保してある。気持ちも乗ってきて腰をすえて作ってもらえるだろうか。見物としては期待大なるものがある。なにか先生のエポックメイキングとなるようなものを期待する。先生は見物に期待させてやまないのである。だから見物は先生の体調その他の事情など、どこ吹く風てなもんで、どんどん残酷になる。茶と楽の本拠地で先生の楽を見てみたいというふうに。先生はそんな見物側の勝手に半世紀以上耐えてきた稀有な人。なにカラ元気だよと先生は云うが。
先生は夜、抜け出すのではないか。京都は先生にとって思い出深い場所である。八木一夫をはじめとする兄(あに)さんたちが、結社などして何かキナ臭いことをやっている。先生当時、しきりと常滑と京都を行き来したらしい。長居はしない。まだ自分は何者でもないが、自分は自分と、一定の距離と矜持を保つためである。あるいはやっつけられる前にあと白波ということもあるか。ある夜、兄さんたちが飲んでいる所で、八木先生に初お目見えする。常滑から来た鯉江良二です!と、直立不動で挨拶していたとの由。兄さんたちの抜き身の議論を、耳をダンボにして聞いているところを見られている。佐藤敏の下宿に転がり込むといったこともあったらしい。二十代のことである。門をほとほと打ち叩く若者にとって、ああいう時代は幸せだったように思われてならない。
今回、先生夜な夜な(あるいはたまに)抜け出すのはいいが、記憶をさかのぼれば、京のちまたのそこかしこで兄さんたちの声を聞くのかもしれない…。
デレックラーセン展。今回で五度目の個展である。近年彼の作は、ますます上等の見物をうならせるものとなってきている。今展ではとくに伊賀に執心していただきたくお願いした。伊賀は、その発生的なところにイデア的なものが如実である。桃山の古伊賀には、利休から織部に連なるエスプリが映し出されている。当時の伊賀上野城主、筒井定次は織部の弟子だったという。そこに力学のようなものを感じさせる。彼にはそこに着眼していただきたい。憧憬と少しの冒険心を心に携えつつ…。何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。葎