だいぶ前だが、大徳寺の塔頭、真珠庵の茶室に招かれて行ったことがあった。窓がいくつか切ってあるのだが、点前座の向うに下地窓というのだろうか、障子の外側に竹とかずらを格子に組んだ、そういった小窓があった。この窓が、陽が差すとプリズムのように七色の虹を映し出すのである。茶室の外の常緑の生け垣の葉っぱに陽が当り、その照り葉の反射光をもらって窓に虹が出るということらしい。竹とかずらの組みようにもその工夫がされているのだろう。筆者はそのからくりと美しさに感じ入り、古人の数寄風流のすさまじさといったものに恐れ入らされた。茶室には、下地窓とか蓮子(れんじ)窓とか、突上げ窓といった採光のための窓が切ってある。光の自在な演出をするのである。茶の空間に、細心の構想でもって自然の光を招じ入れる。そして刻々に移ろう陰翳(いんえい)を楽しむのである。こういった美意識というか風流の心は私たちに独自なもので、西洋にはまあなかったものであろう。
和田的(あきら)の白磁の彫刻的な作品は、一見幾何学的なフォルムというか風情で、磁器ということもあり、ソリッドで、あるいは型もののようで、手触りも冷たそうで、いわゆるやきもの的な味といったものを一切排しているように見える。しかしながら、ものの本質は見ればそれでわかるというものでもない。彼の彫りの作品は、すべて内はうつろの造形であって、ロクロ成形によるものである。挽き上げてから彫り削っているのである。また陶石は、天草の最上級を用いている。肌理(きめ)美しく、かつ微温を帯びたようなテクスチュアは、エッジの立った厳しいかたちと好対比をなして、余人のものとは一線を画している。そしてこれらは、窯の洗礼を受けて完成される。彼の作品は、制作のあらゆるアスペクトで、彼自身のリアルな身体的関与がものをいって作られているのである。だから型ものとは趣きを異にした一種の凄味を、自(おの)ずとまとうことになるのだと思う。
彼は彫るという行為に非常に執心する。ロクロで挽き上げた分厚い円筒を、彫りに彫ってかたちとなす。彫琢(ちょうたく)という言葉がふさわしいほどに。たとえば蓋のつまみまで蓋と一体の彫り出しだという。乾燥し切った磁土は硬い。カンナも刃こぼれするのではないか。そんな彼の苦心はなんのためかといえば、それは真珠庵の茶室の窓に現れる虹のごとき美を求めてのことのように思われる。光の明暗を美として捉えようとする陰翳への意識…、そのことが一本のラインを彫るにしても、つねに彼の頭にはあると思う。
私たちは陰翳の美というものに無頓着になって久しいのではないか。筆者なども古い茶室ににじり入ってしばらくは、暗くてほとんど識別できずに盲目同然になるが、目を凝らしていればだんだん明暗のあやが見えてくるものである。色彩も徐々に映えてくる。そのような場での美の気付きは嬉しく、心豊かにしてくれる。そして時間の経過とともに、陰翳の様相も刻々変化してゆく。陽は動き傾いてゆくからである。没する直前などはさらに妖しくも美しい。
写真の作は彼の茶碗で〝御神(おみ)渡り〟と銘されている。茶室では茶碗は受け渡しと拝見の際に、人の手から手へと移動したりする。あとを追えば、美しい陰翳のあやを見せるような気がする。光を透せば、釉を虹のごとく畳に映し出すのかもしれない。そのような次第となれば、彼の謀(はかりごと)通りということになるのだろうか…。
和田的さん初の個展であります。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
和田的展Akira WADA
The Worship of Chiaroscuro
11/14 Sat. 〜 29 Sun. 2020