つい先ごろ刊行された『*陶芸家150人』という本のなかで、福本双紅(ふく)が自身のページに面白い文章を寄せていた。私にとっての陶芸というふうに題されていて、彼女の十九から現在までの、心に起伏した折々の変化、気付きとか迷いといったものが、率直に書かれてあって印象深かった。以下、全文引用したいと思うが、筆者の所感の入り混じりにてお赦しを願います。*(阿部出版2020)
私にとっての陶芸:19歳「手でダイレクトにモノをつくりたい」…十代で素材への予感のようなものがあったのか。直接手で触れなければならない素材は厳密にいえば土以外にない。21歳「陶芸の世界で見たことのない作品をつくりたい」…これは一つの発心みたいなものだったのだろう。しかし発心したとて初志は貫徹しがたいのである。揺らぐのが普通である。23歳「ガラスが好き。その感覚を陶芸で表現したい」…これは彼女のベクトルが、磁器の方角へ向き始めたことを示唆していると思う。ガラスと磁器は組成に同根のものがある。26歳「土(磁土)が窯の中で動く。いかしたい」…窯の中で動くのは当たり前である。縮み、ずれ、歪み、切れ、ときに爆発するのである。しかし彼女は、この当たり前のことを凝視している。根本的なことに、驚きをもって凝視するといった眼差しがある。28歳「自己主張がみえない作品がつくりたい」…自然と自然物。人為あるいは技術と人工物。前者は後者より大いなるものであろう。彼女は軸足を前者に置こうとし、前者寄りの、後者とのあわいのところに自身の立ち位置を決めようとしている。31歳「なんで言葉(コンセプト)が必要なん…」…同感である。人みな飾ってものをいう。作品も同様である。作品以前に、言葉とかコンセプトでずっこけている人と作品のいかに多いことか。どうでもいいような評文もそうである。しかしたとえば、作品に作者が言葉を賦することによって、その言葉が抽象のど真ん中を射抜いているような場合もある。それができるのは別種の才能かもしれないが。32歳「好き勝手に作品を作ってきたと思ってたけど、日本の歴史、伝統、文化、風土にものすごく影響されてるやん」…彼女の真摯な気付きが窺われる。そして自分が生まれて属されてある時空間に、おのれ一個の自己を超えた、より大きな自己同一性を求めようとしている。34歳「感性を研ぎ澄まして素材・技法に向かう」…この意味は、素材の声を聴けるかどうかということであろう。彼女の場合、磁土は元来厄介な素材で、その声は、早口で聞き取れぬほどにかすかである。技法は声が聴けたあとの課題ともいえる。36歳「私がつくる形より自然摂理がつくり出す形のほうが美しい」…28歳のときの思いが深まり確信に近づいていく。これも当たり前のことなのだが、しかしながら、彼女はそのことを継続と経験のなかで実際に知ったのである。38歳「受け身で作品をつくる」…パトスの原義は受動である。外部世界から何かを受け取って心が動くことをいう。待ち受けモードに入ったということか。おのれの感性を信じて、多少の自信が持てるようになったのだろうか。
40歳「わからん」…四十にして惑わずというが、ここで惑っている。しかしそれはもの作る人の常なのである。41歳「わたしが陶芸をする意味なんてあるんやろか」…だんだん威勢のよさがなくなってきた。しかしこのような問いを、自己に問いかけるというそのことにシンパシーを禁じ得ない。心底に不安を蔵さない芸術の人などいるだろうか。42歳「『する』を尽くして『なる』を目指す」…一転前向きなことをいっている。ちょっと哲学的である。しかし芸術の人の『する』ことが、高度な神まねびとするならば、『なる』を尽くして『ある』という地位にまで昇華すべきか。『ある』という境域にこそ、永遠性が垣間見られることがあるのである。43歳「予測を超えることがいい、という予測でしかない」…26歳のときの言通りに、彼女は窯の中で生ずる作品の動きを配剤することに腐心してきた。しかし神ならぬ身である。読めないところは読めないとして、諦観するに至ったのか。44歳「自然の自は『おのずから』とも『みずから』とも読む。相即」 45歳「『おのずから』と『みずから』の『あわい』という感じ方、考え方」…自然を字句通りに解すれば、オノズカラシクアラシムであろう。そういう意味で自然と自然物は相即不離といえる。自然の神秘によってすべての自然物は動の始点を与えられ、生成変化していくのである。そして壊れゆく。人為は自然に敵しない。結局かなわない。そして言う。現在「漸(ようよ)うにおもしろい」…こういう人の作るものは果然、おもしろくも心にくいということになるのである。
目出度さも中ぐらい也といったところですが、謹んで新玉の御慶を申し上げます。皆様ご無事にお過ごしくださいませ。今展では、福本双紅さんが会場に茶の囲いを設えてくださいます。一服如何と相成るやもしれません。そして彼女の美しい作品の数々、何卒のご清賞を伏してお願い申し上げます。-葎-