昔から、時の流れの過ぎゆくさまを、光陰矢のごとしとか、駒光馳するがごとしとか、日月梭(ひ)を投ぐるがごとしとか、そんなふうにつくづくと歎息まじりに云われてきた。今も思わず口をついて出てくる。光陰は百代の過客にしてともいう。時の流れは永遠の旅人のようなものだというほどの意味か。つかれを知らぬ時の流れというふうにも取れる。ご詠歌にも、夢の世は夢もうつつも夢なれば覚めなば夢もうつつとぞ知れ、というのがある。夢のなかの時間とうつつでいる時間の二重構造というか、そのなかでどっちがどっちとも判然としない私たちのはかなさといったものを詠っている。人生最期のときに抱く心持ちは、いや最期でなくとも、私たちの日常さえそのようなものかとも思われ、この歌、身につまされる。
筆者なども、近頃とみにおのれの残余時間の過ぎようの速さにうんざりさせられる。歳ふるにつれ加速度をもって感じさせられる。そして、往時茫々たる来し方を思えば忸怩たる思いにおそわれる。今さらに今を感じてしまい、今さらになにをやっているのかといった忸怩たる思いである。溺れかけながら時間の奔流のなかにいるといった感がある。つかれ知らぬ時は、不断の流れにみちあふれて去来し、時というものは、自己を自己みずから生みつつあるようで、死すべき者どもである私たちにとっては、抗(あらがい)いようのないものなのである。
時とは、私たちにとって絶対的、圧倒的なものだが、それなら時とはいったいなんなのかといった思いに捉われる。しかし時間になにか存在のようなもの、実体的なものを思い描いても詮無いだろう。宇宙はビッグバンに始まったとされていて、その最初期の爆発的膨張は、何億分の1秒のうちに起こったという。時間を数として見るなら、1秒の2分の1、そのまた半分と、1秒を無限に短く区分していけるだろう。そして何億分の1秒に達するだろう。その先も理論上は無限に行けるわけである。そして最後はどうなるのだろう。そこは時間以前の時間の世界なのか。あるいは時間の解体といったことが起こる形而上的世界なのだろうか。ビッグバンはどうなるのか。筆者の頭では想像もおよばない。しかし現代の専門科学をもってしても、到底知りようのないことなのではないか。
それよりも、時間のそのような不可思議さを、私たち人間の立場から、文学的あるいは哲学的に、あるいはミュートスのかたちで語られるほうがむしろ腑に落ちるというものである。今日のサイエンスとも平仄(ひょうそく)の合う部分があったりして面白い。昔の哲学者はこんなことを云っている。それを筆者なりの言葉でつづれば…
「時間は永遠なるものの模像なり。蒼穹の天体と共に生ぜしものなり。ゆえにいずれの日にか両者の解体ありせば、その滅びのときも同じゅうすべきものなり。一(いつ)なる常在者のはからいにより、日月外(ほか)の天体に与えられし使命は、時間に動を得さしめんがためのものなり。また天体は、時間を区切って、秩序ある数の動きとして守るためにあるべきものなりとなせり。往時、生けるこの世界を作りし一なる常在者は、あたう限りこの世界を模範たる永遠の存在に似せるべく注力せしが、かく永遠性を被造物に付与すること能(あた)わず。よって詮方なく永遠の動く模像を作らんとして、天体の秩序を作りしときに合わせ、一(いつ)に止(とど)まる永遠に対し、数にて動ずる、それの模像を作りにけり。これすなわち人の時間と呼ぶところのものなり」
内容がミュートス的で、なんだか誤魔化されそうになるが、詩のようでもあり形而上における深い思惟が窺われるのである。形而上のこととなるとミュートスを借りねば語れないことがある。科学よりも真実性を示唆、暗示することだってあるのである。
結局、時間というものは、永遠すなわち止まる一に対する動であり、一に対する多といったものであるといえるのだろう。それなら私たち人間のようなものではないかとも思われる。そして私たち人間は一人残らず、永遠の模像である時間のなかへ解消されてゆくべき存在ということになるのだろう。
なんだかまた面倒くさいことをたれており恐縮しますが、今展では時間をテーマに(なんと抽象的なお題)金憲鎬さんにお願いしてしまいましたので、このような仕儀となりました。金さん、率直に時計そのものをお送りくださいました。この人が作ればこのようなものになるのかと流石の感しきりで、筆者自身のものにしたくなってしまいます。電池を入れて動かせば、しばらく見入ってしまいました。そしてなにかものぐるおしくも由なしことが浮かびくる次第となりました。器もまいります。何卒のご清賞をよろしくお願い申上げます。-葎-