私たちはだれしも、好き嫌いというか好悪の感情を持っている。それが偏見や先入見で左右されるのは考えものだが、好き嫌いがあるのは仕方がないことである。好悪は、教育とか習わし、あるいは生まれつきとかその人の性質や感性によって相当部分決まってくるのだろう。そして好悪の判断といったものは、だいたいはっきりしていて、私たちはそれにあまり迷うことはないのではないか。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いということであろう。しかしそうはいっても、そこには一つの選別が働いているのであって、その選別が本当に好ましいものを好み、好ましからざるものをにくむといったものであるのかどうか、そこは別問題で、無知とか悪しき先入見に惑わされている場合も多い。
数寄という言葉がある。数寄は好き嫌いの好きの当て字である。侘び数寄という生き方がある。風流な生活ということであろう。これが気楽そうに見えてだれにでもできることではない。たとえば茶道でいえば、日々これ出家の心構えで仏法に従い、雲水のごときルーティンと清浄な生活に精進し、侘び寂びの美意識を持しつつ、茶の湯三昧(ざんまい)に明け暮れするということであろうか。たゆまぬ精神の修養を積まねばならないのである。なんのためかといえば、三昧とはすなわち自由の意味であるからして、執著を離れたパーフェクトフリーダムの境地へ往くというのが最終目的なのである。凡夫にはほとんど不可能事と思われるが、理想をいえばそういうことであろう。しかし古人のなかには、利休とか宗二、織部といった茶道に殉じた人もいる。おのれの命よりも上位に、おのれの道の価値を見出した人たちである。あのような命を投げ出すような行為も、いってみれば究極の好き嫌い、好悪の発露だと思える。一歩も譲らぬ覚悟をもってする選択であったろう。彼のお三方はニルヴァーナ、涅槃(ねはん)を垣間見られたのだろうか。
筆者も命懸けで茶道を遺した古人のひそみにならいたいと思うが、あのような生き方死に方は凡愚にまねできるものではない。思うに彼らの生き方は、仏法と共に人とものの奥深くを見て、それらが美であるか否かの批評を、不断に加え続ける哲学的な生活でもあったように思う。それはおのれ自身の生き方に対しても向けられるものだったと思う。そして彼らの精神の産物のことをいえば、その好悪によって価値づけられた茶碗などのものが、今も私たちに刮目(かつもく)を強いるものとして、数世紀を閲(けみ)して遺されているのである。
筆者にも好き嫌いがある。それは知らず知らずのうちにつくられてきたように思う。もちろん葭(よし)の髄から天井をのぞくのたぐいで、やきものしか知らない輩である。他ジャンルのいいものは、ただいいなあと見る程度でそれ以上に出ない。現代美術はニセ芸術が多くて興味がわかない。要するにやきもの贔屓(びいき)である。この稼業も四捨五入で四十年になるので、ある程度はわかるのである。わかるから、たまさかいいものに邂逅(かいこう)すると、心が晴れるような思いをする。そしてどこがいいのかと自問するが自答できない。いいものはいいからいいと思うのみで言葉に窮するのである。形容詞ならつらつらと思い浮かぶのだが…。はっと打たれる美には言語道断の世界がある。たとえば花の美しさは、その色や形や香りによるのではなくて、美しいから美しいというよりほかないのではないか。そこにあるのは美しい花であって、花の美しさではないのである。私たちの日常にも涅槃の刹那はあるように思われる。
岸田匡啓展、弊館初個展であります。いまだ三十代、唐津にはすぐれた作家が多くおられますが、出色の人と存じます。即座に湧き出る好き嫌いでありました。太鼓判を捺したく思います。はばかり畏れながら四捨五入四十年に免じご信用いただきご清賞賜りますれば幸甚に存じ上げます。-葎-
岸田匡啓展Masahiro KISHIDA
The Beauty Beyond Any Words
3/6 Sat. 〜 21 Sun. 2021