釈迦牟尼は入寂されるとき、この世は甘美であるといわれたそうです。この世は苦界と見ていたお釈迦さんでしたが、臨終におよんで、生きとし生けるものすべてがいとおしく、美しいと観ぜられたのでしょう。いやもっと前から、正覚を得られたお釈迦さんは、行住坐臥、全肯定と完全受容の境地におられた人だったと思います。此岸にいながら煩悩を断じ、すでに彼岸で涅槃(ねはん)に住しておられた尊い人であったと思います。
お釈迦さんのこの世は甘美であるという言葉、それは美という価値についてものいわれた言葉と思われます。〝この世は美し〟。美しければすべてよしというような含意だったのでしょうか。美という一つの大きな価値は、人間が人間らしくあるために、根本に据えられるべき価値であると思います。この価値を取り去ってしまえばそこはもう生きるに値しない世界になってしまうのではないでしょうか。美によって彩られ、規律せられ、試され、導かれ、制作、生産が行なわれるような世に棲みたいものです。そのためには、まず私たちの心が美にみたされたものでなくてはならないのでしょう。
芸術においても、一切の芸術上の制作は、美のインスピレーションを始点とするものでなくてはならないと思います。美の感動、美の衝動が、制作へ人を向かわせるのです。思うに私たち人間が、この世に生れ最初に発見する美といえばなんでしょうか。それは人間の肉体に対するものだと思います。また私たちの日常にとって、一番近い美というものも、人間の美なのではなかろうかと思います。それはかのエロースの、つねに美と共にあるエロースの、初歩の段階ともいえるのでしょう。美への開眼といいますか、それはまず美しい人に対して開かれます。その美は、むしろ男より女性ならではの徳といえるのかもしれませんが、まあ男女へだてなく見られるものでもありましょう。私たちはだれも例外なく、生きている人間の美しさに打たれます。その美しさに比べれば、他の美はすべて影のようなものになってしまうときがあります。それほどはげしいものがあるということでしょう。しかしながら、人間の肉体に見出す美しさというものは、はかないもので、最初に見られたままでは、まことにうつろいやすいものであって、そのままではむしろ醜を感ずることが多くなるかもしれない。それでもなお美しさを発見するためには、私たちのほうでより高次なエロースの段階へ登っていかなければならないと思います。肉体を越え、雌雄の情を超えて、たとえばその人の言葉とか、心づくしとか、全人的な、精神を含めた人間の全体を見る目で見られるかどうか…。すなわち肉体の具体美のみにとらわれず、より抽象的に、より広く対象を愛せるかどうかということでしょう。それがなせるのは、ふたたび美にみたされた心があるかどうかにかかってくるのだと思います。
大江志織展、4年ぶり3度目の展となります。一昨年に予定されていたのですが、出産のため延びてしまいました。当方は残念でしたが、彼女にしてみれば一大事です。あっぱれ元気な男児でした。人は美しいものを見て、それに満たされるとき、生むということを欲します。子を生もうとするのは、エロースの原始的なすがたであると思います。そしてまたエロースは、美についてきびしく吟味されるその高められた段階においても、子を生まんとするのにも似た、生産と制作の欲望なのだと思います。それは単に受動的ではない、美の感激による能動的なものであり、その能動性が美しい生産と制作に結実するのだと思います。美の感動が芸術を生むのです。芸術も学問も、法律をつくることも、都市をつくることも、根っこのところに美のインスピレーションを宿しているべきであると思うのです。
写真の彼女の作は、トルソーのようでモチーフを人間の肉体とするようなものですが、見事に抽象に成功していると思います。彼女の人柄を思えば、彼女天然の鋭敏な感覚世界からの流露のように思えます。同時に高められた段階でのエロースの神助が垣間見られるような、そのような作にも見えてきます。そのためかどうか、文句なしに美しく健(すこ)やかなのです。少しブランクがありましたが、よく作ったと思います。初心を新たに、今後の彼女の継続を願うばかりです。何卒ご清賞賜りますよう伏してお願い申上げます。-葎-
大江志織展Shiori OHE
Fixing Again Her Own Way
4/3 Sat. 〜 18 Sun. 2021