世に円空大賞展というのがあって、かの円空へのオマージュといった趣意で、岐阜でたしか三年ごとに開催されている。円空賞は毎回数人が選ばれるが、円空大賞は一人が受賞する。加藤委は、2013年の第七回でその大賞を受賞している。過去の大賞には、仏師の西村公朝、美術家の李禹煥、染色の三浦景生といった人たちがいる。円空賞でいえば、彫刻の流政之、画家の横尾忠則、陶芸では山田光、秋山陽といった面々が筆者の目には止まる。加藤の受賞の報に接したときはうれしかった。円空大賞が陶芸プロパーの賞でないこと、そして加守田章二が、1967年に受賞した高村光太郎賞のことも思い浮かんでうれしかったのである。
喜び勇んで授賞式の会場にも足を運んだ。そのときの審査委員長だった故人梅原猛氏の言葉が、忘れっぽいくせに妙に頭に残っている。加藤の作品を評して「なにか人でも殺せそうなもののようで云々…」といった、そのような言い回しのまじった式辞を述べておられたように思う。たしかに彼の作品は危ない。投げつけずとも持てば武器になりそうなどきどきするような迫力がある。エッジは研いだ刀のように鋭く、あちこちの尖端は触れるのをためらわせる尖りようである。加藤の真骨頂を示して余すところのない作品が会場には並んでいたのである。
べつに梅原審査委員長の挨拶を難じるのではないが、まあ下から上ってきた案に判を押すようなことだったのかもしれない。筆者も加藤のものは〝取扱い注意〟とかねて思っていたから、殺せるという言葉にとくに違和感も覚えず微笑を誘われたくらいである。しかし人も知る哲学者ということであるならば、あの式辞は全体としておざなりなものだったなあという感じがいまも残っている。加藤の作品にピンと来なかったのかもしれない。だからどう評して挨拶しようかといった困惑があったのかもしれない。それならそれでいい。しかし一等賞をとった彼の渾身の作品に対する、哲学者としてのロゴスを聞かせてくれという一聴衆の勝手な期待もあるわけである。ほかにも彼の作品を評価する人たちが来ていただろう。審査詮衡と、芸術作品と、そこに会した人々。せっかくのそこには一種の共通性が準備されていたわけである。そしてそのような場に、親身な共同意識のようなものを招来させるのは、やはり言葉である。高名の哲学者が審査委員長として請われて壇上に立つのなら、一般論となってもいいから、そのための努力はなされるべきではなかったかと思うのである…。やっぱり難じているのかもしれない。加藤と加藤贔屓(びいき)のためにも少しく残念であったことが思い出される。人にそれなりの賞を授ける側には、畏れとか謙虚さといったものがあらねばならないのではないか。
加藤といえばいま申しましたように、シャープかつエッジの効いた作風で知られるが、一方で、ゆうに柔らかな優しく美しいラインを出せる人でもある。そして彼の作域は、土から石(磁土)、石から土へと、大きく振れる自在な振幅を見せる。フォルム、素材ともに両極を往来できて無事な(かろうじてか)作家なのである。換言すれば彼の自由の境地は余人に比して広大なのである。しかし自由といっても、創作の境地で自由に遊ぼうとすることほど危ういものはない。失敗もする。消耗もする。逆に異様に昂揚することもある。センスの尖った人ほど躁鬱の気がある。加藤自身、自分は波のはげしいほうだという。波の底と見受けられるときはひどく案じられたりした。しかし彼のキャリアも、はや四十年になんなんとするのではないか。彼の、この間の長きに渡る疾風怒濤的な活動と継続には、目を瞠(みは)らさせるものがある。しかしまた思えば彼も六十に近くなっているのではないか。そろそろ疾風怒濤の秋は来し方となっていくだろう。いや悪い意味ではなく…。
筆者は、エセンシャルな天稟(てんぴん)を具える彼に、鯉江良二的なるものの後嗣者に、これからなっていっていただきたいと切に思う。自由を第一プリンシプルとし、自由裡に遊び、自由のしんどさに耐え、芸術における自由とはなんたるかに知り至っていただきたい。そのためにはときに深く思惟をめぐらすということが必要であろう。鯉江良二もああ見えて知性の人であった。知性と芸術はあいみたがいの関係なのである。それからもう一つ、身体ご留意のほどを。とくに酒量のご調節を。鯉江先生の五臓六腑は格別だったのであそこまで持ったのだと思われるのです。-葎-
加藤委展Tsubusa KATO
Art needs Intellect
6/26 Sat. 〜 7/11 Sun. 2021