池田省吾は、織部のエスプリを深く蔵する器も出色だが、独特の塑像をものする人でもある。写真の、茶碗を持ってなにかを仰ぎ見ている人物は、オリベ趣味のいでたちで、どこか老荘の徒のような風情である。禅味というか茶三昧の風狂に遊ぶ人のようにも見えてくる。そのようなリアリティーで迫ってくるものがある。すなわち真に迫っているのである。
千数百年前のシナ唐代に寒山拾得(かんざんじっとく)という二人の僧がいた。拾得は天台山の国清寺に住まい、寒山は寺の西の方の寒巌という石窟に棲んでいた。拾得は近くの松林で拾われた捨て子だった。二人は仲が良く、拾得が僧たちの食器を洗い清めるとき、残っている飯や菜を竹の筒に入れて取っておくと、寒山はそれをもらいに来ていた。拾得は寺の下働きというか、薪を割ったり火を起こしたり、食膳の用意、後片付けをする厨(くりや)のことや、燈明を上げたり供えものをするといった、いわば寺男(てらおとこ)のようなことをさせられていたとか。
そんな折、閭丘胤(りょきゅういん)という科挙官吏が、長安から天台県へ赴任することになったが、あいにくこらえきれぬほどの頭痛に悩まされていた。そこへある旅の僧がやってきて、その頭痛を治して進ぜようという。汲みたての水を鉄鉢に入れて来いと言い、それをしばらく胸に捧げ持ち、じっと見つめるので、閭も覚えず僧が捧げ持つ水に精神が集中した。すると僧は鉢の水を口に含んで、突然ぷっと閭の頭に吹きかけた。閭は飛び上がるほどびっくりして背中に冷や汗が出た。「お頭痛は」「あ、癒(なお)りました…」
この旅の僧が、奇しくも天台山国清寺にいた豊干(ぶかん)であった。寒山拾得の師であり、拾得を拾ってきた人である。天台山中で虎にまたがり詩を吟ずるような人だったという。閭が問う。ちょうど私は天台県へ赴任するところ、あちらでは会いに行ってためになるようなえらい人はいないかと。豊干答えて、国清寺に拾得、寒山というものがおり、じつは拾得は普賢菩薩、寒山は文殊菩薩であると。そう教えられて閭は、天台山の国清寺をさして出かけることにした。衣服を改め、輿(こし)に乗って、数十人の従者を連れて…。
国清寺に着くと、ちょうど寒山が来ていて二人とも厨にいるという。厨では多くの僧が立ち働いているところで、大きな鍋釜から煮え立つ湯気がいっぱいにこもっていた。一番奥に二人の僧が蹲(うずくま)って火に当っているのがぼんやりと見えた。二人ともやせてみすぼらしい。どうも寒山と拾得らしい。閭は見当をつけて歩み寄り、仰々しく地方長官たる官位名と自身の名を名のった。すると二人は同時に閭をひと目見て、それから顔を見合わせ呵呵大笑したかと思うと、一目散に厨を駆けだして逃げ去った。逃げしなに寒山がひと言「豊干がしゃべったな」と言ったのが聞こえた。閭は驚いてあとを見送るしかなかった…。
以上は森鴎外の小説〝寒山拾得〟のかいつまみだが、閭は、寒山拾得に会わんとして逃げられてしまったのである。二人に一瞥されて、すべてを見透かされてしまったのだろうか。そのあたりの解釈は人それぞれだろう。筆者にもぼんやりとしかわからないが、なにか人外の聖なる清浄な存在に、たとえ地位とか名声はあっても、生身の分際不心得の人間がその前に立てるものではないというふうにも取れる。寒山も拾得も豊干も実在の人物だったのだろうか。寒山は漢詩をよくし、今に伝わっている。寒山拾得といえば禅画の一大モチーフである。画のなかで二人とも禅機に達したような様子である。千年以上もそのようにして親しまれてきた。寒山拾得はやはり人の世に現れた神仙的存在だったのかもしれない。神々の下っ端的存在というのが当っているように思われる。
再び写真の作を見れば、この陶像が抽象しているような、そんな人物に筆者も逢ってみたい気がしてくる。見透かされ腹の底から笑われてもいい。憫笑(びんしょう)されてもいい。老翁のようだから駆けだしたりはしないだろう。しばらくの間、一緒に坐していられたらと妄想を駆り立てられるのである。隋代創建国清寺唐代の僧として寒山と拾得が有名である。この二人に豊干をあわせて国清三聖と称する。-葎-