芸術においてものを生すということは、抽象をへて、そこから最終的に具体へと到達することが肝要であるように思う。抽象という悩ましくも困難な道を踏んでいない作品は、えてして浅薄であり、ぬるい。たとえば陶芸、オブジェとかの場合、独りよがりの難解に堕してしまっている。抽象とは、自分は本当は何が言いたいのかという、確たるコンセプトを心に蔵した上での、捨象とか整理、洗練、そぎ落しのことである。そういったことを大きなスケールで、文学的、哲学的に、あるいは批評精神をもってなせる人は少数である。真に迫った作品を作れるのは、そういう人たちである。それはオブジェであろうと器物であろうと関係ない。ちなみに抽象の効いたオブジェをものする人は、概して刮目(かつもく)すべき器物をなすものである。
今展の下村順子は、一九七〇年愛知県生まれ。多治見で制作している。三重大学の教育学部美術科で彫塑を専攻。国立の三重大学にそんな学科があったのかと意外だったが、教育学部だからだろう。彫塑専攻まである。高校の美術教師にでもなろうと思っていたのかもしれない。個展中心に活動してきたようだが、二〇〇九年のファエンツァ国際陶芸展では、エミリア・ロマーナ市議会賞といったかなり派手な賞を受賞したりしている。
そんな彼女との由縁というか邂逅は、彼女その人ではなく、なんのこともない一点のマグカップであった。それを筆者は日常使いとしている。そのマグは一見〝拙〟を感じさせる様子なのだが、どこか〝大拙〟に通ずるような風情をまとっていて、これを良質なアマチュアリズムとでもいうのだろうか、使うたびに好感が増してくるのである。たたずまい、姿がよい。厚さや重さ、手触りなどもひっくるめた、いわゆる手取りの心地よさに感じ入らされる。器体はうすいがカリッと堅く焼かれてある。茶の世界でも手取りの微妙な良さということが重要視されるが、このマグカップ、要するに心にくいのである。さらに言い添えれば、見込は全面に刷毛が刷いてある。外側は赤土に砂礫をまぶしたような焼〆風。刷毛目の入れようがこれまた心にくく、多方向に効果的に刷毛目を躍らせ、素焼きの後、ベンガラや黒化粧を刷いたりぬぐったりして、奥深い景色と味を見せている。あの八木一夫の刷毛目の高みに通ずるものを感じさせられてしまう。
一方、写真のテラコッタというか、俑のような作品群が彼女の別面としてある。古代ギリシャの欠損したタナグラ人形のようだ。タナグラはすべて型らしいがこれは手びねりである。こういった俑のほかにも、芋とかごぼうとか、根菜系の植物をモチーフとし、根っこから植物が生成変化していこうとする姿を造形して、そこに宿る自然の摂理とか、自然の力の不可思議を抽象しようとする。そしてこれらオブジェ系の作品も、上述のマグのごとく、テクスチュアのディテールにおいて秀逸である。成形時に、信楽の白土を荒くあるいは細かく砕いたものを、打ち粉のようにはたいたり、あるいは赤土を薄くドベ塗りしたり、焼成で炭化を加えたりと、意を凝らし作為を凝らしている。その上で作品は自然(じねん)にそこにあるといった風情にまで高められている。まこと彼女のセンスのなせるところだと思う。
彼女は、心底のイデア的なものの流露であるオブジェと、器物とのあいだを相互に往還して無事な人のようだ。そのような敷衍(ふえん)のできる少数者といえる。しかしむしろオブジェからの敷衍によって、器物は付随的に制作されているのかもしれない。彼女のなかでどちらが主でどちらが従か、聞いてみないのでわからないが、筆者は、オブジェ方向からの敷衍で、その流れを受けて、器物がさらに彼女独自のものとして洗練されていくのを見てみたいと思う。作家としてそれが本来かもしれない。彼女の器物に筆者は反射的に好感を抱いてしまう。とまれ欲張りな話だが、作品として、どちらも人の見るべきものとなしていただきたいと、これからもたのしみな人なので切に願い云爾(しかいう)。弊館初個展であります。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
下村順子展Junko SHIMOMURA
To and From Objet and Vessels
8/21 Sat. 〜 9/5 Sun. 2021