ミネルバの森のフクロウは黄昏どきになって翔び立つという。哲学というものも、一つの時代が終焉するときに、それを総覧するものとして登場してくるという意味のことを、たしかヘーゲルが言ったように記憶している。フクロウに知性とか知恵を象徴させているのである。時代の黄昏どきにこそ哲学の出番があるということか。そうとも言えないような気もするが、しかし時代の真っただなかにいる間は、哲学者にも時代の俯瞰はむつかしいという意味にも取れる。時代というものに対し、私たちはだれも群盲象を撫でるといった有様なのかもしれない。
時代というものを、ある時間を区切った、ある社会とか国家とか世界の総体であるとすれば、政治も経済も文化も芸術もそのなかにあるわけであって、私たちもその時空間のなかに攪拌されるようにして生きているわけである。そして時代の影響をもろに受ける。不承の人もいるだろう。抗う人もいるだろう。しかし少数である。人はなにかに影響されざるを得ない存在なのである。影響を心から欲するのではないかと疑われるほどに。その最大のインフルエンサーが時代であろう。人は時代に流される。染められる。とり残されては絶望的である。バスに乗り遅れまいと、うまく立ち回ろうと必死になる。しかしたいていの人はうまく立ち回ることができずに終わるのである。時代は、人の生殺与奪をほしいままにするある種の怪物といえるのではないか。私たちの眼前の現代という時代はどうであろうか。漠然とした不安ということが言われて久しいが、ここに至りその漠たる不安の実体が、急激に顕わに具体になってきているのではないか。かのシュールレアリスムは、不安の深層を抽象する表現でもあったと思うが、それも顔色(がんしょく)なしといった風景が広がっているように思われる。
唐突だが、時代意識というものを考えると、男はダメである。男の精神は女性にくらべて不安定である。時代というもの、あるいは未来と言ってもよい、それへの意識の、ある意味過剰な、そういう時代とか未来に対する意識の過剰に苦しめられるところがある。弱いのである。ひき比べて、女性の時代に接しての立ち居振る舞いは、男とちがうように思う。女性は、事ここに至ればというキワのところで、腰がすわるというか、ふっ切ってしまえる強さがあるように思う。概してといった一般論ではあるが。
写真の澤谷由子の作品は、イッチン描きの紋様が非常に細緻細密である。その装飾は、彼女の疲れを知らぬ手指のマニピュレーションでもって反復し増殖していく。外部的なことなど一切おかまいなしといった調子で、ほとんどトランス状態となって内へと沈潜していくのだろう。
澤谷の綾錦を織りなすような装飾の特徴は、あるいは女性的と括られるようなものかも知れない。あるいは手芸的とか、マニピュレーションというような手先の技巧とか、そのように評されるのかも知れない。しかし筆者には彼女の作品を見るにつけ、これはかなわないなあという思いが湧く。どういえばいいのか、その営々たる連綿の様子とか、そこに込められた祈りのようなもの、生命に対する愛慕とか、勝手な感じようだが、漠然たる不安なぞどこ吹く風といった、時代とか歴史に過度に執着しない、女性的に永遠なるものへの志向がうかがえる。文様は細にして密だが、ロクロの遠心力を秘めた真白きフォルムに、絽か紗をふわっとまとったような風情がある。古い仏像の瓔珞(ようらく)とか截金の荘厳を連想させる。泥漿をイッチン(絞り袋)に入れ、絞り出しながら加飾していくのだが、コバルト系の泥漿だけで三十数段階の色相を用意するという…。糸をつむぎ、何色にも染め上げ、機を織り、黙々と驚くべき忍耐によってついに綾錦を織りなすといった世界のイメージである。かなわないなあと思うのである。
本年掉尾の展であります。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。なお年末年始は、27日(月)~7日(金)まで休業させていただきます。よろしくお願い申上げます。皆様ご留意ご自愛の上お過ごし下さいませ。-葎-
澤谷由子展Yuko SAWAYA
Her Patterns for Solemnity
12/11 Sat. 〜 26 Sun. 2021