日々の出勤途上、住宅街や商店街を抜けてくるのだが、時間帯によるのかもしれないが、見かける人がほとんど老人になってきている。その光景は、半分この世ならぬあの世の心地ぞするといった景色に思われて、ちょっとした戦慄を覚える。そして、見かける老人たちは概して元気がなさそうである。どこか無気力そうで面白くもなさそうな面持ちで歩いている。そんななか、たまに通学中の子供たちに出くわすとなんだかバランスがとれたようで、やっとあの世ならぬこの世の心地がしてくるのである。
近頃とみに青春はどこで失われ、どこでどう老年が始まるのかという思いにとらわれる。自身がすでに老境に入りつつあるからそのような意識をもつのかもしれない。老いも死も、人間には不可避なものであるから、結局は死とともに青春も失われる。しかし青春は生のうちにあるから、この人生のどこでどう失われるのだろうかと。
人はだれも若いときは、筆者もそうだったが、酒と恋にうつつをぬかし、どんちゃん騒ぎのなかで、エロース神は我と共にありと思いなし、老いや死は他人事であり、憎むべき対象であり、最大の敵とみていたのではないか。しかしそれも歳ふり、衰えを感じるようになると、ちかごろはさっぱりエロース神が自分と遊んでくれないという嘆きを嘆かねばならなくなる、そんなとき人は、はじめて失われゆく青春を意識するのである。だから逆説的だが、青春は、歳とってからの老年の意識のうちに、愛惜とともに花開くということになるのかもしれない。人は青春を気にし出すとき、すでに老いはじめたということなのだろう。そして青春を喪失しつつあるという意識は、一つの不幸な意識なのだろう。筆者などもそれに悩まされ、なんというかすべてが面倒になり、すべてに厭(あ)いてくるような沈んだ気持ちになったりする。これではいかんと思い直すのだが…。
近頃のテレビは通販番組のたれ流しと化しているが、そのなかでこの人は何歳に見えるでしょうか、三十代?四十代?ときて、実は七十ウン歳なのです!といった怪しげな通販をよく目にする。ほんまかいなと思うとともに、七十ウン歳らしい老モデルのことがグロテスクに見えてくる。そしていつまでも若いなどということは、軽蔑すべきことに思えてくるのである。くだらない通販番組に気付かされるといった図である。
私たちは若い人たちを見て、彼らのどこか背伸びしているような不自然さ、そのはしゃぎよう、粗暴さ、そのうらで垣間見せる色青ざめた悄然たる表情を見て、あるいは笑い、あるいは気の毒に思うことがあるのではないか。このようなことは、若い人自身も、子供たちの子供らしさのうちに、同じように見て取るのかもしれない。それはほほえましく、失楽園への思いとともに、うらやましくさえ思ったりするのかもしれないが、実際にはだれもそこに止まりたいとは欲しないのではないか。少なくも筆者はもう一度戻りたいとは思わない。
結局、おのれに言い聞かすように陳(の)ぶれば、私たちは死すべき者どもであるから、青春はかならず失われる。たれかこれを免れんや。しかし人生の長きのなかで青春の再生は可能だろう。それは私たちがなにかを成すこと、自他のために、ささやかなりともなにかを達成をせんと欲することによってのみ、青春は新しくつくられ、老境においてもエロースを可能にするのではないか。さすれば不断に失われゆく青春を、生とともにもつことができ、人生を甘美なものにすることができるのだろう。それには青春を未練たらしく引っ張ることなく、むしろ青春を断念する覚悟がいるのではないかと思う。
鯉江明の展もこの十一年間で八回目となる。過日、酒席で彼に歳をきいてびっくりしてしまった。おのれも充分馬齢を重ねているのに、あらためて光陰矢のごとしの感を強くしたのである。酒が入るにつれ不仕付けなことを言ったように思う。もっと新味を、もっと深化を、もっと展開を、もっと没入を、砂時計の砂はあっという間だぞと、酒の勢いをかりてまくしたてた。ご寛恕いただけているかどうか…。彼の作には、歩留まりはさておき、とびきり美しいものがある。だから言いたいことが言いたくなるのだろう。彼には一心不乱の継続ということを切に願いたい。そのなかで大小の達成があるはずである。鯉江明もそろそろ青春を断念すべき秋に入ってきている。しかしその青春からの卒業を土台とした、さらなる没入と達成によって、新生の青春を幾度でも謳歌していっていただきたいと思うのである。-葎-
鯉江明展Akira KOIE
Graduating from Adolescence
4/30 Sat. 〜 5/15 Sun. 2022