感覚は九竅(きゅうきょう)に相前後して満ち
一旦智覚を後に快苦のうちに移ろいゆく
時につき従いうたた流れゆく
刹那とは仏の云う時の究竟(くっきょう)点
静止するがごとき時の相貌
つき従う感覚は分割不能の態(てい)で刹那に棲まう
かく夾雑(きょうざつ)なき刹那の感覚は
人を選(えら)み神の嘉(よみ)するところ
人を選み刹那にひそむ永遠の秘密
言語道断なるもの垣間見ゆる神の仮座
そこに座すれば人は人外何者かと化し
神人の域にしばし遊ぶとかや
(九竅:九つの穴。目鼻口耳、その外二穴を加えた九穴の感覚器官)
芸術の人には何かが降りて来るような刹那がある。それは時を選ばないが、そのとき狂喜する。たとえば制作中の即興は、そういった精神の昂揚するただ中で発揮される。きわどいところで遊ぶ遊びである。百尺竿頭(かんとう)一歩を進むの境地である。脳ミソと手が分離するような時間である。
素材を土にいかなる方角を目指そうと、素材はあくまで目的のための媒体物と思うべきでる。通暁はしても泥中に逃避するような姿勢はいかがなものか。手段に精神までゆだねるべきではない。問題は、心底に住まいする魂にいかなるものを湛えるかにある。詩人の魂をもつか、音楽か、崇拝か純情か、毒をもつか。はたまたイデアなるものか。さもなくば何も降りては来ないだろう。
芸術の人は枯渇を覚えると、自分の詞藻はついに尽きたかと、しばしば絶望の表情で地下水脈をのぞき込む存在である。魂が湛えていたものを再び想起しようとしてあがきもがく。
新宮さやかも、干上がってはいないかと不安顔でのぞき込むのだろうか。彼女の場合、いまだ詞藻がたゆたっているのを見るのではないか。作るものからして、筆者は彼女のことを、もの生す人の大丈夫とみている。汲めども尽きせぬ詞藻をつむぐようにして彼女の作品は成っている。その詞藻のあと押しによって、彼女の精神は高揚し、ついに脳ミソと手の遊離する刹那を経験するのである。それは俄(にわ)かの、あるいはゆるりとした方向転換、気づきをもたらす。それは彼女の奥深く息づいているプシュケーの命ずるところのものなのである。彼女のプシュケーはつねに善美なるものに近づいていくようで、それが彼女に真に迫るものを生さしめているように思われる。新宮のプシュケーは永遠への憧れを湛えるピュアで善きプシュケーなのである。-葎-
日ごろのご高配まことにありがとうございます
まことに勝手ながら、本年6月29日(水)以降、
定休日を水曜、木曜の週二日とさせていただきます
人手のことなどもありましたが、
これにより作家の方々への訪問を増やし、
コミュニケーションをより深く密にし、
展の内容をさらに充実させていきたく存じております
今後とも何卒のご贔屓を賜りますようお願い申上げます
ギャラリー器館拝