写真の作品は、植葉香澄がものした広口の壺である。これに勝手ながらタイトルするなら、色絵金プラチナ彩陽刻羊歯(しだ)文磁壺というのがいいだろうか。あるいはちょっと気取って詩的に〝羊歯萌ゆ〟などと銘してみたくなる。一見、波山とか富本のエセンスが混淆したような様子だが、屈託のない高度なアマチュアリズムといったものが如実に現われており、それゆえに、両大御所のイメージはさっとよぎるのみで、消え去る。そして、これを彼女一人(いちにん)のものとして認め享受できるのである。余人ではなかなかこうはいかないのではないか。
彼女ならではの翻案がなされているのである。あの波山と富本の達成は彼女の脳裏にあったのかもしれない。当方もそのようなヒントめいたことを吹き込んだりしてみた。しかし植葉は一旦作り始めれば、それをすっかり忘れ去って、私ならこうしようああしようと、それも作りながら瞬時瞬時の遊びに遊ぶことができる人のように思う。そしてトランス状態となって囚われのない自由の境地に入って行く。囚われなく遊べるということ。そこを担保するのがアマチュアリズムの精神なのではないか。彼女の持って生まれた天然部分のなせるところでもあるのだろう。長年彼女を間近に見てきてそのように思う。
胴は、羊歯という原始植物を力感あふれる深い彫りであらわし、余白は、ぼかしやにじみを効かした刷けによって、春霞が立つように表現されている。プラチナもうっすら刷かれていて美しい。羊歯にフォーカスしたバックとの遠近の景が見事である。見込のほうは、優にやさしいラインで、余白を生かしつつプラチナと白モリで羊歯が唐草に描かれている。外と内の場面展開がじつに心にくい。磁器の真白き清澄感も生かされ、この壺の大きな構成要素たり得ている。そしてすべてが収斂されるように統合されており、凝縮の存在感を放っているように思う。
この広口壺、彼女のこれまでのイメージとは少しく趣きを異にするものかもしれない。カオスとコスモスを往還するような、オートマティカリーに人工交配的に増殖していくような彼女の圧倒的な装飾世界を思えば、抑制的で静まったような印象である。そして過去の偉大な達成、クラシックなものに脈絡しようとする意志が垣間見えるように思う。クラシックには一流という意味もある。大いにあり得べしである。彼女の作風ががらりと変わるということではなく、拡がり深みを増すという意味で興味津々たるものがある。それほどにこの作品の完成度は高まっていると思う。植葉の作品の本質は、生命の躍動というか沸騰、奔出が鼓動とともに迫ってくるようなものだが、今展では彼女のまた別な鼓動が聞こえてきそうな気がする。
今回で十二回目の植葉香澄展でございます。もの生す人としての彼女の力量、奥深さを何卒ご高覧賜りたくよろしくお願い申上げます。-葎-