やきものは、土と水の親和がもたらす〝可塑性〟によって成立する。手で叩けばへこみ、伸ばせば伸びる。ロクロでは回転に沿いみるみる姿を変える。切ったり貼ったり、彫り削りも自在の自由な世界が広がる。しかしこの可塑性という賜物とひきかえに、さまざまな困難があとに控えている。水を含んでいた土はまもなく水を失う。水は去り、乾いたカタチとして土がそこに残る。その間、土のカタチは刻々に収縮するという物理的力に耐えている。そして焼成ともなれば、さらなる収縮にさらされる。さまざまな困難といったが、作り手にとって最も悩ましいものに〝収縮〟という不可避の現象がある。
高柳は磁土(石)を使うが、磁土は土より厄介である。焼成時に20%近く収縮する磁土がある。窯の中の造形物は切れ、割れ、ときに破裂する。作り手は大丈夫と踏んで窯に入れるのだが、その期待はしばしば裏切られる。高柳とて例外ではない。最終工程での不首尾である。落胆いかばかりかと思う。
写真の作は、九つのパーツを連関集合させた、石ものアサンブラージュとでもいうべきものか。型を用いず、尖端の突起以外はすべてロクロ成形である。貼り付けではない。釉着による一発焼成で端然たる姿に仕上げている。垂直に立てた様子は、北の海に半透明でたゆたうクリオネ(はだかかめ貝)かと思わせる。
窯の中では、九つのパーツが全体として収縮していく。収縮しながら釉着部の釉は熔けて液状化する。このとき各部は、いわば水の上に浮かされるような状態が生じるわけである。中心をとって、水平にも垂直にも、斜め方向にも、細心のバランスを考えるのであろうが、そもそも収縮するということ自体が動である。さらに釉着させるのだから、もう一つの動が介在するわけである。別してこの作はじっとしていられないような風情である。危ない橋を渡ろうとする人である。
クリオネの内臓のような卵形のパーツから、細かく面取りした突起が伸びている。この突起が、ご覧のように、花萼を逆さに伏せたようなパーツのなかを通っているのだが、その花萼の径3cmほどの円の中心点狙いだったのが、少しずれてしまった。写真ではわからないが、角度を変えればそれがわかる。彼女の残念がること。
しかし筆者は彼女のやっていることを思えば、さもありなん、これでいいのだと思った。この作品の最上端の小パーツが中心点をはずしたことは、パーツパーツの、動の連鎖反応といったものによって起こった出来事のように思え、彼女にもなぜだか特定できないことだろうと思ったのである。
高柳むつみという人は、試み、挑み、冒険する作家だと思う。自由と制約のせめぎあいのなかで、ものおじせず、生得に持っているとしか思えない驚くべき技術を発揮し、自身の真骨頂を作品に映そうとしている。享受側はそこも買ってあげるべきなのではないかと思い云爾(しかいう)。-葎-