写真の北村純子の作品は、一辺1mmほどの△のドットを何千と刻印し、白化粧土を象嵌したものである。フォルムは、杉ナリに直線で立ち上がって、肩から急角度にかすかなアールを描きながら、小さな口へ収斂するようにして終わっている。文様は一見単純なパターンのようにも見えるが、さにあらず目を凝らせば、それは渦巻き、混淆しつつ、なにかを撹拌しているかのような印象である。渦巻いて層をなしてパースペクティブである。そこに動を感じる。一方、肩から上の大部分は象嵌していない。墨のような黒の一面がある。大小に切った水玉文が整然と配されており、静まった秩序を感じさせる。ここは静といった印象である。対照の妙が実に心にくい。この、白の象嵌を思いとどまった領域が入ることで、動と静、いわばカオスとコスモスの往還と脈絡といったものにまで想像が広がる。よく見ると、半円の曲線が一本、肩を境に二つの世界を連絡するように通っている。スケールの大きな抽象を見る思いがする。
筆者はこの作品に彼女のなかの変化と移動を見る。印刻してなお象嵌しないという新味が加えられたのである。残酷にも作家にはつねに変化と移動が求められる。しかし彼女の場合は、呻吟し苦しんだ挙句の変化とか移動というものではないように思う。それは心と時間の、ゆるやかで自然な流れにまかせた推移に由縁するもののように思われる。心の奥底からふっと浮かんでくるようなものなのではないか。かねてより北村純子という人はそのような作家だと筆者は目している。付言するように彼女は言っていた、象嵌しなかったのは、見えるものと見えないものでいえば、そこに見えざるものを表現したかったからと。
見えざるものに気付くということは、芸術の人にとって最も大事なことだと思う。鋭敏な感覚に知性の助力があってはじめて可能となる。感覚だけでは不足である。見ればわかるということは私たちが日常に経験することだが、しかし見れども見えずということのほうが多いのではないか。芸術の人は見えざるものに憧憬を抱く。それはその人の心魂の奥深くにあって眠っている。容易に想起し難いものであろう。見えざるものとはなんであろうか。要するに形而上のことだが、それの究極は神なのかもしれない。あるいは美とか真のイデアのようなものか。コスモスの生成消滅の秘儀かもしれない。死もそうであろう。この世で見られる死は、此岸で見られる死にすぎない。死の向う側はだれも見ることはできないのである。
芸術の人の真骨頂は、これら見えざるものの断片であっても、自身の作品でもって私たちに抽象して見せることにあるのだと思う。そして私たちの心に気付きと波瀾を惹起させるのである。そこらあたりに本望があるのではないか。大仰なことを口走っているようで恐れるが、彼女の新作に気付かされたということにてご寛恕願います。-葎-