人生は〆切の連続であるというのは筆者の座右の銘で、実際、浮世に生きて時々に思い知らされることである。〆切というものには、欠きがたい義理や約束がからんでくる。おのれの信用とか人格の問題にまで発展することがある。〆切は、面倒くさいが先に立ちといったタイプの人間にはとてもつらいものなのである。昔の文士というか小説家は、たいていがチェーンスモーカーで、のべつ紫煙をくゆらせていた。あれは〆切にあせるのである。文章が湧いてこないのである。原稿取りを恐れるのである。あるいは何かが降りてくるかもしれないし、降りてこないのかもしれないのである。ニコチン中毒ということもあろうが文士たちは、口から吐く紫煙がおのれの心魂の抜け殻のようなものに思えて、呆然たる思いで眺めることがあったのではないか。
去る八月の盆明けに、今展のこともこれあり、新里明士をたずねようと車で出かけた。前もってしつこく連絡したがアポが取れない。行きすがらにでも取れるだろうと思いとにかく向かった。しかしほかの訪問先もあちこち回りながら携帯を打つのだが一向に反応がない。やむなく当方の予定もあるので、突撃することにした。彼は土岐の下石(おろし)というところに住いしている。到着すれば近在に際立つ瀟洒であかぬけした建物。車もあったので、在宅だろうと思い声をかけるが返答がない。仕方なくあきらめて帰ろうと思ったが、少しく中っ腹、口惜しくなってきて、横手へ回ると仕事場の入口がある。ロックされていない。ままよと闖入(ちんにゅう)者とあいなった。こうこうと電気はついているのだが人の気配がない。用心が悪いではないか。見回せば、窯のふたは開いたまま、床には梱包材がとっ散らかっている。ロクロの亀板には削りクズがきれいに円形に残ったままである。ほんのちょっと前までここにいて、あわてて出て行ったような様子である。個展かなにかの〆切にせき立てられ、作品を持って飛び出していったのだろうか。しかし車は表に止めてある。再び声掛けしても静かである。なんだかこちらが空巣狙いのような心地がしてきたので、持参の土産の下に支払分をしのばせて立ち去ることにした…。
新里明士の面目躍如である。彼は昔からつかまえるのに難儀する人で、連絡を入れてもナシのつぶてといったことが多い。当初は嫌われたのか、あるいはなにか誤解のようなものが起きているのかと落ち着かない気持ちになったが、今ではもう慣れっこになった。雲隠れ霧隠れの新里明士と思っている。もっとも彼は振り出した約束手形を不渡りにしたことはない。気は大いにもませるが、結局は約束を果たす人なのである。
しかしそれにつけても人生は〆切の連続である。そして見物は残酷である。どちらも芸術の人にとっての、のがれがたい現実である。それに耐えんとして新里には新里のスタイルというか生き方というものがあるのだろう。普段はちがうのかもしれないが、あのような乱雑でカオスのような工房のなかから、光と戯れ、光を包含し光と合一したような美しくて清浄なものが生まれてくるのである。そこは彼の聖域のようなところで、同時に悩ましい場所でもあるのだろう。何人も不可侵の彼の世界なのである。彼にもできれば人に会いたくないときがあると思う。過日の不意の訪問はあいにくの仕儀となったが、ひょっとして彼を煩わせるようなことになったかもしれず、そうはならなかったことをよかったと勝手に得心しているのである。本年掉尾の展、新里明士展でございます。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-
(勝手ながら年末年始は、27日(火)より6日(金)まで休業させていただきます)