-珠洲窯(すずよう)紀行 梶原靖元記- 令和四年神無月
能登半島の先端、珠洲市まで、唐津から約一千キロ、小型車の80~120キロで高速道路をひた走る。途中、エンジンからカタカタと異和音がする。道路工事で高速道路を降り、スタンドで見てもらうと、エンジンオイルが空っぽ!3リットル追加し、念のためにディーラーに持っていくが修理代が高くつくと脅かされ、とりあえず九州に帰るまでなんとか踏ん張ってもらうことにする。
一日目は金沢市内のホテルへ。夜、ヤクザな居酒屋で、隣に右翼の男、急いで食事を済ませ店を出て、寿司屋で飲み直し、三軒目は記憶がない。
朝六時にホテルを出て、駐車場へ。タイヤにネジ釘が刺さっている。スペアタイヤに交換してガソリンスタンドへ。パンクを修理していざ出発。カタカタとエンジン音を鳴らしながら、青空の下、海岸線を走り、輪島を過ぎて珠洲市に入ると、早速、古窯跡へ。西方寺古窯は七輪の素材でもある珪藻土層をくり貫いただけの穴窯。屋根もなく柵もないのに、八百年ものあいだ崩れることもなく、静かに佇んでいた。
付近の村人に話をし、壺や摺鉢の古陶片を見せていただく。珠洲焼らしい墨黒の陶片もあれば、鉄錆色のものもあり、七輪のような白い陶片もある。
窯跡近くには川が流れ、八百年前の当時、珠洲焼は珪藻土の風化物を使って甕や擂鉢を作り、この川を利用して海まで運び出したらしい。お願いをして民家の裏の珪藻土を頂く。その他にも、海岸の横、山の上、七輪工場の珪藻土を分けてもらい、家に持ち帰った。
珪藻土は、藻類の殻の化石、二酸化ケイ素の堆積物。空洞が無数にあるために軽い、石の塊である。その珪藻の殻の骨格を臼で突き磨り潰すと、体積は3分の1にまで減り、骨が絡まりあうことで粘りが出る。あとは穴窯で冷却還元焼成すれば墨黒の器が出来上がる…はずだが、三度ほど試験焼きを試みるも、低温では焼き閉まらず!温度を上げるとすぐにヘタってしまう。焼成温度帯の幅が狭く、悩まされた。一般的な須恵器、焼〆の器は肌がザラザラとして、口を直接つけることは避けたくなるが、珪藻土を使った珠洲焼は、口当たりがなめらかで、意外と盃や食器にも向いている。こんな魅力的な土に出会えることはそうそうないような気がして…。
梶原靖元という人は、素材や技術技法の事柄では、専門家裸足の知識を持っている。伝世のクラシックに対する造詣も深い。それは生(なま)の経験と実践に裏付けられている。歴史の事柄では、深く狙って錘を沈めながら、ものの由って来たるところまで迫ろうとする。古人の声を聞き、古人と対話する。慣習や文化、往時の人々のエートスを育んだ風土を思う。そして仮想の自分をそこに置いてみる。そしてこれら一連の没入の姿勢で、地理的に驚くべき広いレンジで足跡をしるしていく。全身これやきものバカの日常とでもいうべきか…。筆者はそのスタイルに敬意を禁じ得ない。現場というより臨場主義の彼の生すものはタイムマシンで運んできたような様子である。湯気が立つようである。しかし単なる倣作ではない。彼はいざ作る段では、危うき遊びを遊ぼうとする。遊んで大丈夫か?危ない危ない。しかしあえて険を冒すがゆえに、オリジナリテにおいて梶原一人(いちにん)が生したものとなるのである。魅了してやまないものが彼から出てくるのである。
毎年恒例の梶原靖元展であります。彼はいま、玄界灘の壱岐に行っているとの由(12月上旬現在)。今は海は荒れるし日も迫るし、いろんな意味で心配です。弊館の展ではいつも遊ばせてくれるのが嬉しいと彼は言うのだそうです。さて如何にあい成るか。彼には残酷なのですが期待はふくらむばかりです。何卒のご清鑑を伏してお願い申上げます。-葎-
令和五年癸卯(みずのと・う)
謹んで新玉の御慶を申上げます
本年も相変わりませず
何卒のお引廻しを伏してお願い申上げます
(正月は六日まで休ませていただいております)
ギャラリー器館拝