前回の加藤委の展は、一昨年の暑いときだった。今回で何度目になるのか。振り返ればこの三十年近くの長きに、何回やってくださったことだろう。光陰矢の如しでめくるめくものがある。なかには低調な展もあった。一方で彼は天才かと興奮を覚えるほどの水際立った展があった。ミュージシャンでいえばベストアルバムを何枚もリリースしているといったところか。しかし昂揚の秋(とき)と悄然のときは交互にやってくるのである。
アバウトだが彼の個展はもう十数回になろう。まこと有難く思う。筆者などは、彼の自然な起伏の連続のなかのJust Nowをスパッと裁断した、その一断面を見てみたいと常に思ってきた。だから具体的にあれこれと頼むことはなかったように思う。いつもいうことだが、作家は作りたいものしか作らないし、また作れないのである。また作家ならばそうであろうと思う。しかしながら、今展では、お恐れながらとリクエストさせてもらった。陶質土と白化粧で行ってほしいと。
彼は二十代のころ、仲間とともに尼ヶ根(あまがね)古窯の発掘調査と保存活動に関わっている。それを紀要といったらいいのか、小冊子にまとめ上げている。青春の足跡である。尼ヶ根古窯は、多治見市の小名田というところに位置する。小名田は加藤のふる里で、現在住まいする場所でもある。歩いて行ける距離にあったということである。
尼ヶ根窯はいわゆる大窯で、内部の最大幅は3.5mに及ぶという。安土桃山へと時代がせり上がっていく十六世紀中葉から後半にかけての窯である。時あたかも唐物趣味から和物へ、そこへ侘び茶の確立ともあいまって、やきものにおける嗜好のパラダイム的転換期に当っていたことになる。この窯は、すぐれて実験的な窯だったらしい。瀬戸黒や黄瀬戸、ひいては志野や織部といったものの出来(しゅったい)を予見させるような試みがなされていた。たとえば銅緑釉の陶片が出土していて、黄瀬戸とおぼしき陶片に緑のタンパンを打ったものが出ている。この銅緑釉が後の青織部釉へと連続していったのではないか。志野の前段階の灰志野の皿も出ている。志野に灰が被ったような少し青味がかったものらしい。そして瀬戸黒の完品が出土している。筆者はその一碗をある茶会で加藤の本家筋の人から見せてもらったことがある。長次郎の黒楽に先行して作られたあの筒形の茶碗。墨黒(ぼっこく)の世界にあらゆる色彩を包含していたかのように、その後の桃山陶の百花繚乱のための起爆点だったような気がする。
加藤にとっての尼ヶ根窯の渉猟は、古人と問答を試み、自己を知るというか、おのれの自己同一性を確認するためのものであったように思う。それは二十代の彼が何者かになっていくための方向性を与えるものであり、なにか発心させるような体験でもあったのではないか。すぐそこの尼ヶ根窯という場で、父祖たちが新たなるものに挑戦し、試行していた事跡に接することは、彼にプライドと矜持を植え付けたことであろう。
谷を見下ろす急傾斜の上にあった大窯は、その後の保存活動も甲斐なく道路拡幅によって窯体はあとかたもなくなってしまったとの由。兵(つわもの)どもが夢の跡である。しかし急斜面は当時のままに、灰原、物原となって名残を残しているという。
今展では小名田の土で白化粧を施した新作の展観を予定いたしております。化粧するとは”やつす”ということかとも思います。やつすには省略する、抽象するというほどの意味もあります。また出家するという意味もあるそうで、今展では俗塵を振り払ったような、浮世離れしたような、すなわち加藤委唯一無二の作品を期待しつつ待ちたく存じております。写真の作品は過去の川小牧時代の茶碗です。鉄彩(熔化)白化粧大服茶碗とでもいうべきでしょうか。堂々たる存在感を示しています。まだこんなものがあったのかと一驚しましたが、本番では新作が並ぶことと存じます。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。1986年に彼と仲間が上梓した小冊子は”尼ヶ根古窯資料集”といいます。-葎-
加藤委展Tsubusa KATO
Identification and His Own Way
4/1 Sat. 〜 16 Sun. 2023